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【岩倉具視】
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京都で公家社会の改革も推し進めた
戊辰戦争が続く間、岩倉たちは新しい政府の枠組みを作り始めました。
三条実美が徳川家始末のため新政府軍とともに江戸へ行っていたので、京での中心は岩倉になったのです。
岩倉とならぶ幕末維新の代表的公家・三条実美~七卿落ちからの復活劇
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宿直(とのい・公家が泊まりこみで朝廷に勤めること)や人数の大幅削減など、大胆な改革を実行。
反発も大きかったようですが、岩倉は「御一新のためには幕府を倒すだけでなく、公家社会も変えなければいけない」と強く思っていたのでしょう。
また、明治天皇が江戸に行って一度京都に戻ってくるまでの間、岩倉も随行しています。
その直後に病気を理由として岩倉は辞職してしまいました。
仕事辞めたがりすぎ……といいたいところですけれども、文字通り東奔西走の働きをしていた人ですから、体にガタが来ても無理はないですね。
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その後は新政府に関する意見書を提出。
事細かにあれこれ言うというよりは、全体としての枠組みをこうすべきだ、という点だけを書いています。
本当に「意見」を書いたものという感じです。
木戸や大久保、伊藤と共に約2年 岩倉遣欧使節へ
体調が回復したのか。
岩倉は廃藩置県の後に外務卿(後の外務大臣)に就任しました。
日米修好通商条約は1872年7月1日までは改正のための交渉もできないことになっていたので、そろそろ改正を頼みにいかなければならない時期。
しかし、法整備が整っていなければ「まだまだ未開国みたいだからダメw」と言われるのは目に見えていたので、西洋の文物を学ぶことが急務となります。
これが日本史上一・二を争う壮大(であまり意味の無かった……)お使い・岩倉遣欧使節です。
岩倉を特命全権大使とし、副使には木戸孝允や大久保利通、伊藤博文というビッグネームが随行。
1年10ヶ月の旅で直接西洋を見ることはできましたが、、条約改正の達成どころか色々とトラブル続きの視察となってしまいました。
詳細は以下の記事をご覧ください。
実はトラブル続きで非難された岩倉使節団 1年10ヶ月の視察で成果は?
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岩倉が興味を惹かれ、日本にも必要になると考えたのが鉄道でした。
JR東日本の前身にあたる日本鉄道は、高島嘉右衛門(かえもん)という実業家に推され、岩倉らが創立したものです。
また【征韓論】で政府が揺れた際には、反対を唱えています。
西郷は死に場所を探していた? 征韓論と明治六年の政変で新政府はガタガタに
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秀吉時代のこともあり「朝鮮に攻め入れば清を敵に回すことになる」という理由からでした。
この頃の清は名ばかりの存在ですが、その代わりに欧米の出方をうかがわなければなりませんし。
そのせいで、征韓論の支持者から襲撃されるという事件が起きています。
多少の怪我で済んだのは不幸中の幸いと言えるしょう。なんせ岩倉を含めた「維新の十傑」は四人も暗殺されていますからね。
岩倉の意向で伊藤博文が大日本帝国憲法を起草
間もなく、征韓論を強く推していた西郷隆盛が西南戦争で自害、この件はひとまず片付きました。
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しかし、一難去ってまた一難。
新たな問題が噴出します。
それまでの公家と武家をまとめて「華族」としたため、旧来の身分や家柄による衝突が絶えなかったのです。
まあ、そう簡単に先祖代々・数百年の考え方を変えられませんよね。
岩倉は華族の統制を図るために工夫をこらしましたが、岩倉自身が公家出身であることから、武家出身の人々は「公家出身者ばかりヒイキしないでください!!」と猛反発。
最終的には議会に貴族院が作られ、華族の役割がはっきりしたことで決着をみます。血みどろにならなくてよかったよかった。
また、立憲について、当初の岩倉は反対でした。これは、自由民権運動が高まり、政府の中でも憲法の必要性が叫ばれるようになってから、岩倉も考えを改めたとされています。
大隈重信はイギリス、伊藤博文はドイツを手本とするべきともめていたのを、岩倉が伊藤に任せることにして決着させました。
伊藤はその後ベルリンやウィーンで学び、大日本帝国憲法の起草をすることになります。
生粋の武士だった大隈重信は右脚失いながら政治と早稲田85年の生涯
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秀吉並の超出世で足軽から総理大臣となった伊藤博文~松陰に愛された才とは?
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明治天皇直々の見舞いまで持ちこたえ、7月20日に死去
何でもかんでも最後には岩倉が決めていたような感がありますが、実は明治十六年(1883年)頃から体調が悪化していたようです。
それでも仕事を続けていたからか。明治天皇の勅命で、当時東大医学部の教鞭を執っていたドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツが診察したときには、「咽頭がんで切除は不可能」という結果が出てしまっています。
明治日本の長短所~エルヴィン・フォン・ベルツはどう見てたのか?
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ちなみに、これが日本初のがん告知だったとか。
岩倉は「そんなんで日本初になっても嬉しくない」と思ったでしょうね。
咽頭がんには上咽頭がんと下咽頭がんがあり、岩倉がどちらだったのかはっきりしません。
まぁ、胃がん説もあるようですし、上咽頭がんは日本人には少ないそうですから、下咽頭がんのほうが確率は高そうですかね。
岩倉は明治天皇直々の見舞いの次の日まで持ちこたえ、7月20日に亡くなりました。
彼が最後に手がけていたのは、京都御所の保存に関することです。
これによって今日の京都御苑の整備が始まることになります。
極端な改革ばかりを好んでいたのではなく「日本の良いものは残していこう」と考えていたことがよくわかりますね。
決して高くはない身分から、才覚でもって新しい政府の中心となり、それでもなお西洋一色に染まることを良しとしなかった――そんな岩倉の人生……とまとめると、ちょっと綺麗すぎますかね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
岩倉具視/wikipedia