橋本左内肖像画(島田墨仙作)福井市立郷土歴史博物館蔵/wikipediaより引用

幕末・維新

橋本左内26年の生涯まとめ! 西郷の心に居続けた福井藩の天才 哀しき最期

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将軍:一橋慶喜
国内事務宰相:松平春嶽徳川斉昭島津斉彬
外国事務宰相:鍋島閑叟
その他官僚:川路聖謨・永井尚志・岩瀬忠震

彼はこのような構想を抱きます。

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外交面では、ロシアと手を結び、イギリス等の各国に対抗する案も抱くほどでした。

 

忍び寄る安政の大獄

安政の大獄」とは?
一般に思われがちな「倒幕派への弾圧」ではありません。

井伊直弼など南紀派による一橋派の粛清であり、どちらの派にも様々な政治思想の人が含まれておりました。

この安政の大獄によって取り調べを受けた左内は、終始こう主張します。

「私の行動は全て幕府のためにしたことです」

間違いはないでしょう。

左内は、あくまで幕府の体制を強化することを目指していました。そのために必要な条件として考えていたのが、聡明な慶喜を将軍にすることだったのです。

しかし、そんな言い分が認められるわけもなく……。

「強情な奴だ。自分のしたことをあくまで主命と言い張りおって、罪を主君になすりつけるとは不届き者め」と、かえって心証を悪くしてしまうのでした。

左内の主君・松平春嶽は蟄居謹慎処分。そして橋本は、伝馬町牢屋敷斬首となりました。

 

西郷最期のときまでその書状を持つほどの仲

彼が斬首へと引き出されるとき、牢名主は涙を拭いながらこう言いました。

「あなたのように、若く、優秀な方が処刑されるとは、惜しいことです。あなたの身代わりに私が死ねたらよいのに」

そう思った者は、この牢名主一人ではなかったことでしょう。

享年26。あまりに短い生涯でした。

時は流れて明治10年(1877年)。自刃した西郷隆盛の手文庫の中から、左内の書状が出てきました。

「将軍継嗣問題」の頃にやりとりしたもの。最期のときまで手紙を手元に置くほどに、二人は親しかったのです。

もしも橋本が生きていたら、西郷と志を共にして明治を生きていたのだろうか――。
歴史IFを楽しむと、そんな風に考えてしまうかもしれません。

しかし、個人的にはそれは難しいものだったのでは?と感じてしまいます。

左内の考えた「幕藩体制を維持したうえでの国家構想」は、倒幕とはむしろ方向性が逆。彼と考えが同じであった徳川慶喜、川路聖謨がその後どういう道を歩んだかを考えれば、左内もまた新政府にスンナリ参加したとは思えないのです。

幕臣・福沢諭吉のように、政府外から学者として近代化に尽くす、そんな道だったのではないでしょうか。

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先進的な考えを抱き、開明的で、優秀だった左内。

しかし、倒幕派ではない。

それでも若くして命を落としてしまう。

彼もまた、幕末維新の動乱期に、理不尽な運命に翻弄されてしまった一人でした。

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文:小檜山青

【参考文献】
国史大辞典
『幕末維新人物事典』泉秀樹(→amazon

 



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