西郷隆盛に影響を与えた人物は誰か?
そう問われたら、多くの方が以下の人物あたりから候補者を挙げるでしょう。
では、もう一つ質問です。
西郷隆盛が死の直前まで大切に持っていた「手紙」の送り主は誰か?
それは齢26にして【安政の大獄】の犠牲者となった、福井藩の天才。
橋本左内――安政6年(1859年)10月7日が命日となります。
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福井藩の神童
橋本左内(本稿はこの名で統一)は天保5年(1834年)、福井藩奥外科医・橋本長綱の長男として誕生しました。
幼いころから聡明だったことで知られた左内は、15才にして『啓発録』を執筆。
その骨子は、以下の五項目からなっておりました。
『啓発録』
1. 13~14才になったら大人に頼るような子供っぽさは捨てる
2. 士気を鼓舞してゆく
3. 志を立てる
4. 勉学に励む
5. よりよい人付き合いを目指す
これだけのことを、きっちり文章にして記すとなれば、やはり神童ということでしょう。
『啓発録』は現代語訳(→amazon)も出版されており、今なお学生やビジネスマンの間で人気があるほどです。
優れた頭脳は「池中の蛟竜」と称される
神童として知られた橋本左内。
『啓発録』を著した翌年、16才にして緒方洪庵に弟子入りしてからも、その才能に尽きることはありません。
適塾で医師を育成した緒方も、左内の頭脳には舌を巻き、彼をこう呼びました。
「池中の蛟竜」
これから世に出るのを待っている――そんな大きな才能という意味が込められておりました。
左内の、ちょっと変わった性格を表すエピソードとして、こんな話があります。
あるとき、友人が負傷しました。それを見て、左内はその傷をあろうことか焼こうとします。
「火傷なら治療法を知っているから」
かような理屈でした。
合理的というか、何というか。常人の発想から離れたところにいる――我々凡人は、唖然とするばかりでしょう。
西洋化と藩政改革に抜擢
左内の秀才ぶりは、更に広く知れ渡り、交際範囲は広まります。
島津斉彬に付き従い、江戸に出向いていた西郷は、彼らと接する機会を得たのでした。
そして西郷は、同年代の優秀な思想家として、左内の名を挙げるほど高く買っていました。
もちろん、さほどに若く優秀な左内を、世間も放ってはおきません。
藩主・松平春嶽(松平慶永)に取り立てられ、書院番、侍読(秘書)、御手元御用掛と順調に出世。それだけ仕事が出来たのでしょう。
藩校・明道館の蘭学係にも就任し、洋書習学所を開設しました。
積極的に西洋の学問や技術を取り入れ、藩政改革や開発に取り組んだのです。
藩政改革にも尽力しました。
これが20代前半までのことというのですから、まさに早熟の天才というほかありません。
列強の脅威を感じ、いかにして日本もそこから学ぶか? その点についても、左内は若くして構想を抱いていました。その内容は……。
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