親切な人だなぁ……と思っていたら、いきなり高い浄水器を買わされそうになった。
人の話を親身になって聞いてくれて、笑顔もとびきり素敵な人が、マルチまがいのネットワークへ勧誘してきた。
とかく世知辛い世の中では、親切で人を油断させ、騙くらかしてやろうという人がいますが、今回、注目させていただく中国の王莽(おうもう)はケタが違います。
なんせ国家簒奪規模でそれを実行。
「前漢」を滅ぼし「新」という国を立ち上げてしまうのです。
能力もないのに富と権力、名声を欲しがる人は、ドコの社会にも必ずいるものですが、実際、この王莽によって前漢と後漢に分かれてしまいます。
いったい何が起きていたのか。
西暦23年10月6日は王莽の命日。
当時を振り返ってみましょう。
【TOP画像】緑の枠で囲まれた地域が「新」 photo by 玖巧仔 /Wikipediaより引用
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前漢の宣帝が不安視したことが現実に……
中国・前漢の第9代皇帝は、宣帝(在位前74−前48)です。
彼は武帝の曾孫にあたり、乳児の頃から政治闘争に巻き込まれ、24才まで民間人として育ったという苦労人。
その後も政治闘争で糟糠の妻・許后を謀殺される等、辛酸を嘗める人生を送りました。
そんな宣帝は、心優しい息子、のちの元帝となる太子(在位前48—前33)を見て、将来を危うんでおりました。
あまりに儒教を重んじていたからです。
「儒教は理想主義が過ぎるから……どこかで現実と摺り寄せられるだろうか……」
苦労人の宣帝は、息子こそ王朝を滅ぼすことになるかもしれん、と危惧するほどで、その見通しは、当たらずとも遠からずでした。
元帝の頃から、漢はゆっくりと衰退を始めるのです。
元帝の子・成帝(前33−前7)になると、美女・趙飛燕と趙合徳姉妹にうつつをぬかして政務をおろそかにしていまいます。
※趙飛燕(ちょう ひえん)……三国時代の貂蝉(ちょうせん)に代わって「中国四大美女」に入れられることもある美女
そんな中、権力を握ったのが、成帝の母である王政君でした。
彼女の一族も出世し、王氏一族はこの世の春を謳歌。中国史でみられる「外戚の台頭」という状況ですね。
三国志ファンならばおなじみの何進と何皇后兄妹も、台頭した外戚でした。
そしてこの王政君の親族に「儒教を重んじる」という点だけで言えば、パッと見て百点満点の偽善者がおりまして。
彼は本当に王朝を滅ぼすことになります。
それが王莽でした。
ボロボロの姿で生きるエセ清貧ライフ
一族が皆出世する中、父が早世していた王莽は、日の目が当たりませんでした。
絶好調すぎてチャラチャラしてきた従兄弟たちを見て、王莽は逆の生き方でアピールしようと思いつきます。
儒教を超重んじた“清貧ライフ“です。
王莽は儒教の教師について猛勉強。
粗末な衣服を着て、母や親族には徹底してへりくだって接します。
それはもう徹底しており、一族の総帥である王鳳が病に倒れると、その見舞いに駆けつけ、風呂にも入らず不眠不休で看病を続けるほど。
「うちの若い連中はチャラチャラして調子に乗っているけど、お前は違うようだね。素晴らしい!」
感激した王鳳は、成帝と王政君に、王莽を推挙します。
果たして「(実力は伴わないが)態度がよい」という理由で、24才の王莽は政界入りを果たすのでした。
出世しても王莽はあくまで清貧を装い、質素な衣服を身にまとい、グルメとは無縁で、もらった物は全て人に分け与えてしまいました。
世間の人々は、そんな王莽の清貧イメージにころっと騙されてしまいます。
例えば王莽は、我が子を次から次へと殺してしまっています。
人気取りのために犯罪を犯した息子を自殺に追い込んだり、父の無道を咎めた息子を殺害したりしたのです。
世間の人々は、
「我が子だろうと犯罪を犯したら責任を取らせる王莽様、スゴイ!」
と褒めそやしました。
しかし四人目が死んだところで、王莽はぬけぬけと愛人に生ませた子供たちをスペアのように表に出します。
それまでは聖人君子ぶって、彼らの母も、彼ら自身の存在も隠してきたのです。
徹底してゲスの極みでした。
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