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【王莽】
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ライバル淳于長を死に追いやるも世間の評価は高いまま
前8年、王一族である大司馬の王根が隠退。その後釜に、淳于長がつくことが確実視されました。
そこで王莽が動きます。
淳于長を嫌う王政君に、彼の不倫や不品行ぶりを密告したのです。
これを聞いて激怒した王政君は、すぐに淳于長を逮捕&処刑。
このようにエゲツない手段で政敵を追い落としたりするのですが、それでも世間は清貧ぶりに騙されてしまいます。
「大司馬になってまで地味な生活をしている王莽様って、本当に立派だなあ」
そして前7年、成帝が急死してしまいます。
なんでも、張り切って催淫剤を飲み過ぎて腹上死……とのことで、宮中は大騒ぎ。同衾していた寵姫の趙合徳は、死を賜りました。
成帝は荒淫にふけっていたものの、世継ぎには恵まれませんでした。
これは寵姫の趙飛燕が、他の女性が妊娠すると流産するように仕向けてしていた、という噂もある程。
次の帝位には、成帝にとって甥にあたる哀帝(在位前7−前1)が就きます。
この哀帝は、かつて王政君にとってライバルであった、元帝の寵姫・傅氏を祖母とします。
憎たらしいあの女の孫が、めぐりめぐって帝位についた、というのは彼女にとってはおもしろくない。
王政君にはコンプレクスがありました。
元帝の子を産んだとはいえ、彼女への寵愛は薄く、ライバルの他の妃の方が愛されていたのです。
ここで、哀帝のご機嫌伺いのために、帝の祖母・傅氏や母をもり立てようという者が出てきます。
そうした動きを王莽は阻止し、王政君に対してポイントを獲得。
王政君のコンプレックスを察し、かつてのライバルであった元帝の妃たちを抑え込むことに成功しました。
しかし、それも長くは続きません。
王莽は、哀帝の外戚たちが台頭してくると、自ら大司馬を辞任して、二年経つと長安からも遠ざかり、領地に三年間引きこもるのです。
諦めるためではありません。
密かに捲土重来を待っていたのです。
捲土重来から王朝簒奪へ
王莽が領地に引きこもっている間、哀帝の外戚や男色の愛人たちが政治を操り、王朝は著しく荒廃していました。
「あぁ、王莽様のように立派で清廉な方が政治を担ってくれたらなぁ」
世間がそう思う頃合いを見て、王莽は三年ぶりに長安に戻ります。
ココらへんの読みは、ある意味天才的かもしれません。
そしてその一年後の前1年には哀帝が崩御し、ついにチャンスが巡ってくるのですから王莽も笑いが止まらなかったでしょう。
明智光秀なら、まさしく「時は今!」の場面です。
王莽は、政敵や外戚たちを死に追いやり、自らは大司馬に復活します。
そして、まだ9才という幼い中山王を平帝(在位前1−5)に擁立し、ここまできたら王朝簒奪の最終仕上げまであと少しです。
王莽は「白い雉が出現した」として、王政君に届けました。
この白い雉は何なのか?
たまたまアルビノ個体でもいたのか。あるいは何らかの塗料で塗ったのか。
白い雉といえば“聖人が現れる兆候”とされていました。
政治のゴタゴタに疲れ切った当時の人々は、何かの予兆だと信じ込んでしまったのです。
「これは新たな聖人君子が世を治める予兆です!」
「王莽様こそ周公旦の再来です!」
「聖人君子の王莽様にしかるべき地位をお与えください!」
王莽の息のかかった重臣たちは、彼をヨイショしまくる上奏文を書きまくり。
かくして王莽は、わざとらしく何度も辞退した上で、太傅の地位と「安漢公」という称号を得るのでした。
何ともバカバカしいお芝居ですが、こうした演出能力だけはハンパじゃなく高いのが王莽なのですね。
ハリボテ権力者のデタラメ政治
王莽はブレーンに命じて、オカルトめいた予言を出させたり、王莽様スゴイという話を流布させまくりました。
さらに当時ですら実態がわからなかった旧王朝・周(しゅう)のものだとして、デタラメな儀式を始めます。
そもそも王莽という人物に実務能力などありません。
ライバルを蹴落とすことと、権力を得る手段、さらには王政君はじめとする一族に取り入ることが得意なだけで、リアルな政治・政策能力は皆無。
まぁ、権力闘争=政治力だろ……という見方もあるかもしれませんが、巨大な王朝を動かすには、やはりリアルな実務能力も必要とされるものです。
中身のないハリボテのような、あやしげな言動やら復古主義を垂れ流し、自分の権威に箔を付けることしかできない。
それが王莽の限界でした。
王莽は、それでも自らを取り繕い続けます。
服の下に詰め物をし、シークレットブーツのような靴を履き、高い冠をかぶって、威張り散らすような姿勢。
「フェラーリを乗り回している!」と豪語する、マルチネットワークの中毒者みたいなもので、自分が他人からどう見られるかというのを異常に気にしておりました。
そして彼はついに、漢王朝簒奪に成功してしまいます。
王朝の象徴である「伝国璽(でんこくじ)」を渡すように王政君に迫ると、彼女は「恩知らずめ!」と怒り嘆き、伝国璽を投げつけました。
このとき伝国璽は一部が欠けてしまったとか。
平帝は、前6年に崩御していました。
王莽による毒殺説もあります。
そのあと帝位についていた孺子嬰(6-8)の手を引きながら、王莽は臭い演技に酔っていました。
「皇帝になんてなりたくないのに、こうして威厳あふれる皇帝陛下に迫られたら断るわけにはいきますまい」
しらじらしいにもほどがある言葉を、ヌケヌケと彼は吐き捨てたのです。
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