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【増田宗太郎】
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地元の士族たちと西南戦争に参加
いずれにせよ、その成果がはかばかしくなかったのか。
明治時代に入った後、増田は思い切った行動に出ます。
地元の士族たちとともに、西南戦争に参加したのです。しかも西郷方で。
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薩摩の出身でもない上に、それまで武働きとはほぼ無縁だったであろう増田が、反政府側についたというのはなかなか不可解なところもありますが……本人はこんな言葉を残しています。
「一日先生に接すれば一日の愛があり、三日接すれば三日の愛がある」
この”先生”というのは西郷隆盛のことです。
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つまり、どこかのタイミングで増田と西郷と膝を突き合わせて話すようなことがあり、その人格に惚れ込んだからこそ苦楽を共にしようと決めたのでしょう。
城山の戦いで戦死か、西郷自刃後に斬首の最期
西南戦争の終盤に西郷が解隊を宣言した後も、数百名が付き従っていたといわれています。
その中に増田の姿もありました。
もともと身分が高い人ではなかったので、最期はハッキリしていません。
西南戦争の最終局面・城山の戦いで戦死したとも、西郷の自刃後に捕らえられて斬首されたともいわれています。
お墓は中津市の安全寺と、鹿児島市の南洲墓地とにあります。
安全寺のほうでは奥さんと一緒のお墓だということなのですが、誰が供養したとか、子供の有無など伝わっていないようです。地元の方ならご存じでしょうか。
学のある人なだけに、どこかに日記なり手紙なりが残っていてもいいように思うのですけれど……そういう話もないみたいですね。彼の生家の建物はなくなってしまっていますし。
せめて、西郷が増田をどう評価していたかがわかればいいのですが。もし史料が出てきたら、もっと研究を進めていただきたいものです。
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長月 七紀・記
【参考】
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
安岡昭男『幕末維新大人名事典(新人物往来社)』(→amazon)
増田宗太郎/wikipedia