コロナ禍という大きな困難を乗り越え、成功作品として評価されている『麒麟がくる』。
◆「麒麟がくる」光秀めぐる“謎”利用した脚本に拍手(→link)
本日(2021年2月23日)午後1時5分から『麒麟がくる』総集編が放送されます(→link)。
それに先立って、弊サイトでも総評をまとめました。
早速ご覧ください!
大河中興の祖となった『麒麟がくる』
2020年から2021年にかけ、日本のみならず世界を襲った新型コロナウイルス。
そんな最中に放送されていた『麒麟がくる』については
トラブルがなければもっとよくできたのではないか?
という意見も見かけますが、それは望蜀(ぼうしょく・限りがない欲望でさらに望むこと)だと思えます。
むしろこの状況下、数年ぶりの視聴率という結果を残したこと。
大河ドラマ不要論を払拭したこと。
望み得る最善の結果だったのではないでしょうか。
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消化不良であるとか、モヤモヤするとか。そんな意見も散見されますが、それは作品そのものに一定の満足感があったからとも考えられます。
本当に作品がマズかったら?
これ以上望めそうにない出来だったら?
たとえどれだけ良い作品になっても、人というのは何かと不満を感じてしまいがちな生き物です。
『麒麟がくる』――本作は、大河ドラマという王朝にとって「中興の祖」と呼べる可能性を感じます。
このドラマ枠が、主演を演じた役者を一回り大きくすることも再認識させてくれました。

大河を機として一気にブレイクする緒形拳さんや渡辺謙さんとは違う。
それまで一定のキャリアがあり、主演を務めることで人間としての深みに到達する。
まるで菅原文太さんの再来とでも言いましょうか。奇しくも主役としての退場が一致。彼らの演じたヒーローは、風のように歴史の中にふっと消え去るのです。
菅原さんは本人に歴史への造詣が深く、あの半藤一利さんと対談するほどの極みに到達しました。
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役者としてだけではなく、人間としての成長があるのではないか?と、ドラマが終わった今でもワクワクが止まりません。
往年の高視聴率は達成できない。社会状況やライフスタイルの変化をふまえれば当然と言えます。
むしろこの作品は、コロナ禍という異例に対応した作品です。
しかし『麒麟がくる』の困難は、コロナ禍だけだったのか?
そうではありません。不祥事による出演者の降板のみならず、さまざまな課題がありました。
まず大きな課題が視聴率。国民的番組だった大河ドラマはどうなってしまうのか?
裏番組の『ポツンと一軒家』と『イッテQ』が近年大きく育ち、なんとしてもこの層を取り返さねばならない。のみならず、BSプレミアムでは先行放送が実施され、NHKプラスによる配信も開始されました。
視聴率だけではありません。
アマゾンプライムビデオやNetflixといった「VOD」の脅威もあります。
例えばAmazonプライム『MAGI』では吉川晃司さんが織田信長を演じ、豊臣秀吉に緒方直人を配するという大河経験者がキャスティングされました。
しかも、スペインやポルトガルの影響による秀吉の朝鮮出兵という、最新鋭の説も柔軟に取り入れています。
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『麒麟がくる』は定番の戦国ものであり、三英傑全員が出てくるため、人気磐石のように見えたかもしれませんが、実際のところは未知なる脅威と戦わねばならない、極めて難しい局面にいたのです。
もしも失敗したら?
大河ドラマは不要論が決定づけられてしまうかもしれない。
それでも本作は踏ん張った。
次へと種を撒く中興の祖『麒麟がくる』には、守るべき徳が備わっておりました。
その五常の徳にたとえて、偉業を振り返りたいと思います。
本作は衣装にまで五行説を採用したことをふまえ、「五常」によって進めて参りましょう。
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『麒麟がくる』とは、危難の時代であればこそ、その徳を示したと思えるのです。
大道廃れて、仁義有り。 智慧出でて、大偽有り。 六親(りくしん)和せずして、孝慈有り。 国家昏乱して、忠臣有り。
大いなる道が廃れたとき、仁義が生じる。
悪知恵を抱くものが現れたからこそ、秩序なり制御が必要となってくる。
家族が仲良くできないからこそ、親孝行や慈悲という観念が生まれてくる。
国家が乱れて争うからこそ、忠臣があらわれる。『老子』
【仁】時代劇を明日へと繋ぐ誠意
仁とは? 誠実さ。人を思いやること。優しさを持って周囲と接し、己の欲求よりも全体をよりよくするように考える。
2010年代末の大河は、その歴史をたどる上で、危難の時代として記憶されることでしょう。
私も大河そのものが不要だと思うようになっていました。
たとえ日本が舞台でも、海外の歴史ドラマには優秀なものがある。前述のAmazonプライム『MAGI』、さらにはNetflixでも伊達政宗を主役とした『エイジ・オブ・サムライ』を作るとか。
一方で、2010年代の大河には、あまりにおかしな作品が多かった。
もはや歴史を描くのではなく、何らかの意図ありきで作られるのではと感じ、もういっそ終わりにしてよと思ったものです。
大河だけではありません。
日本の時代劇は全般的に低調な時代が続いていて、例えばNHK新春時代劇を見ていて、目を疑ったことがあります。
江戸なのに道ゆく人はまばら。ストーリーは時代物というよりも昭和時代のサラリーマン。安っぽいセットと小道具、そして衣装。所作も何かおかしい。
もう時代劇を作る技術すら滅びていくのか――そう思うと虚しさが募ってきました。
では、どうすれば立て直せるのか?
それには目先の数字にこだわる作品ではなく、10年後、20年後まで繋ぐものを作らねばならない。NHKはそのことに目覚めたのかもしれません。
『麒麟がくる』には、キャスティングに特徴を感じます。
主演の長谷川博己さんと年齢が近い方が多い。彼らと共演する脇役に、時代劇経験が豊富なベテランを揃える。
そうすることで、ハセヒロさんら不惑を超えた世代に何かを継承しているように思えたのです。

不惑世代の役者さんには、気の毒な状況がありました。
『独眼竜政宗』や『武田信玄』を見て感動する。『信長の野望』で遊び、歴史知識が身につく。読書の定番は司馬遼太郎。
そうして育ち、役者になったけれども、時代劇は斜陽を迎えている。
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彼らが役者として青年時代を過ごしたころ、もはや時代劇は「ジジババの見るものw」という扱いとなっていた。
往年の時代劇俳優ルートは消えたようであった。
刀や槍を持って暴れたい!
かっこいい剣豪になりたい!
でも、受け皿がない……。時代劇の本数そのものが減っているし、うっすら「ダサい」と思われている。
大河ですら迷走していました。
若者受けを露骨に狙い、トレンディドラマ、テレビゲーム、漫画を意識したような作りを模索。その結果、どうにもしっくりこない、スベった作劇が増えました。
大河出演が目標だし、家族はきっと喜ぶだろう。と、思ったらこの現状はなんだ……。自分たちが憧れていた侍はもう体現できない? 他国のドラマでは、同世代の役者がかっこいい英雄や武将を演じているのに……なぜなんだ!
役者さんたちにそんな戸惑いがあったとしてもおかしくありません。
名誉、親孝行、オファーの増加。
そうした動機で大河に出ても悪いとは思いません。
しかし、芯にあるのは、カッコいい歴史上の人物を演じたい!ではないでしょうか。そのチャンスが消えかかっていたのですから不幸なことです。
今思い出しても、あれは何だったのでしょう。1990年代から2010年代にあった、ズレた若者受け大河路線の迷走は。
そこで登場したのが本作。
『麒麟がくる』は不惑世代にかっこいい時代劇を用意し、継承させたい意図を感じました。
体力もまだある今のうちに伝えたい。殺陣もがんばってもらう。馬も乗ってもらう。所作もきっちり仕込む。そんな丹念な指導を感じたのです。
あと十年遅かったら、こうはいかなかったかもしれない。
このドラマはハセヒロさんと同世代の方が活躍を遂げていた印象がとても強いのですが、彼らに巡ってきた運命がこの歳なのだと思えました。
そしてこのことは、思わぬ宿痾をも打開しました。
大河の宿命として「三英傑がベテラン過ぎて殺陣の迫力がでない!」という問題がありました。人間五十年という信長のはずなのに、なぜ、その親世代ぐらいの役者さんなんだ? そういうモヤモヤ感があった。
今回は若返りました。
信長の染谷さんは不惑世代よりも一回り若い。

最終回での織田信長が強すぎるなんて言われておりましたが、それも染谷さんが努力し、ありあまる体力であったからこそだと思えました。
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桶狭間における片岡愛之助さんも動きに力強さがあった。
こんな今川義元でも討たれるのか!と感慨深かったものです。
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殺陣にも伝統の継承を感じました。
本作では90年代以降にあったワイヤーアクションの影響をようやく払拭できたと思いました。
今井翼さんの毛利新介には使われており、できないわけではない。ただ、日本の古武術をふまえ、必要以上に使わなかっただけでしょう。
もっさりしている、ハセヒロさんは運動が苦手なのか……そんな感想もありましたが、決してそうではないでしょう。
古武術特有のゆったりとした動きです。
感情を乗せ、殺陣による心理描写をするような演出も圧倒的でした。足利義昭と光秀が打ち合う場面は、芸術的でした。
和装の所作は、日頃使わない筋肉や関節を使います。それゆえうまくできない――それは昭和の時点で指摘されていました。甲冑を身につけるとさらに大変です。
ハセヒロさんたちの不惑世代以降は、畳のない家で暮らす時間の方が長かったとしても不思議ではありません。彼ら世代は「今どきの若いもんは所作がなってない」と言われながら役者をする羽目になっていたことでしょう。
ただしこれは彼ら自身の努力不足ではありません。指導の問題だってあるはず。
本作はそこをきっちりとクリアしました。時代劇経験がそこまで長くない若い方でも、きっちりと所作ができている。
エキストラや子役もできている! 時代劇はこうして継承できるのだと思える出来でした。
役者だけではなく、古武術、蹴鞠、連歌、茶道、仏事といった、伝統そのものを継承する意図を感じます。
今年はオープニングクレジットに、伝統を守る人々の名が例年以上に多く並びました。
のみならず、街並みや群衆の場面も多い。当時の人々の日常生活を残し、再現することも大事です。そうして演じ、映像に残すことによる継承はあります。
本作は民衆視点の人物が多く、それを不要だとする感想も見受けられましたが、彼らの姿、生きていたことを残すことも、歴史の継承です。
本作には、そうして継承していく優しさがありました。
次の作品以降に希望を継承する、これぞまさに【仁】です。
【義】筋を通す、ぶれずに通すこと
義とは? 私利私欲よりも、社会全体をよりよくする。そのためには自分はどうすべきか、正しい道を考えること。
大河ドラマの感想を見ていると、一種のアレルギー的な反応があります。
「嫌でございますぅー」
「愛のために! 義のために!」
そんなふうに揶揄される。ええかっこしいをする主人公周辺はバカにされて当然だ。そんな空気があります。
敵対勢力を狡猾に描き、主人公が撫で斬りしてもそれが正しいと演出する――こういう大河ドラマの悪癖は、何も悪名高い2009年『天地人』だけのことでもありません。
往年の名作扱いをされている1987年『独眼竜政宗』でも、ダブルスタンダードが酷いものでした。
伊達政宗のなで斬りは綺麗な殺戮、最上義光の謀殺は汚い策略ですと? そりゃないでしょう。
ただ、戦や殺戮を避けることを、どうして批判されなければならないのかという疑念は湧いてきます。
人を殺すくらいどうだっていい。それが戦国時代だ。
そう言い切るとすれば、それはそれで現実逃避ではありませんか。
乱を好み、禍を楽しむ姿勢とは、むしろ悪いことではないでしょうか?
むしろ戦争の悲惨さを知らないゆえの甘えのようにも思えます。
2013年『八重の桜』では、会津戦争の描写が生々しすぎて見ていられないという感想もありました。生々しい犠牲は避けて、安心安全でスカッとできる戦争をみせるのだとすれば、それは不誠実極まりない。
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本作は、そこへ誠実に向き合ってきました。
道三らの暗殺だけでなく、女性や子どもが殺される生々しい場面がある。
しかも、それが主人公が仕える側の人間が行う。光秀自身も殺戮に関わった。戦に苦痛を感じているものの、戦わねばならない時もあるとしみじみと語る。
戦とは何か?
それと向き合うとはどういうことか?
そこまで丁寧に描いてきました。
主人公のする殺戮はよい。敵がするものは汚い。そういう甘えや妥協は一切なく、誠実な姿勢がそこにはあり、その上で殺戮を引き起こしたと責められても受け止めていたのです。
そういう描き方をするからには【義】の再定義も求められます。
光秀が掲げる義とは? タイトルから明確にされています。
麒麟がくる世にすること――光秀はそう目標を設定し、主君を替えてでもそのことを模索し続けます。
そのことをハセヒロさんは理解していました。
◆長谷川博己、『麒麟がくる』明智光秀役の約18カ月を振り返る 「一生の宝物になりました」(→link)
上記の記事にこんな一節があります。
明智光秀は、孔子の言う「義」の人であったと思います。
それは光秀を演じる上で、最後まで一貫して崩してはならないと思っておりました。
世のため、民のため、平らかな世を目指し貫き通した男だと思います。
この通りだと思います。
そして光秀の言動は、かなり丁寧にそれを説明していました。
『麒麟がくる』での明智十兵衛光秀は、ズレた善意と人徳が『鬼滅の刃』の主人公・竈門炭治郎とも似ています。
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2020年代の幕開けに「人徳」が重視されるヒーローが現れた――これは偶然ではなく、必然ではないか。
にも関わらず、ネット上には批判的な意見が踊ったものです。
「ゆるふわで何を考えているのかわからない」
「この光秀は何がしたいのか理解できない」
そういう声に私は驚きながら、実は納得できるところもありました。本作に立ち塞がる大きな壁があったからです。
視聴者の儒教知識が低下していることです。
このことは非常にまずいのではないか?
日本人の思考という道具箱から、漢籍知識というツールがなくなってしまったのでは?
と、おそろしいものすら覚えたのです。
『麒麟がくる』の鑑賞中に『FACTFULNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』(→amazon)という本を読みました。
そこには「なんでもかんでもひとつの専門知識だけで切り抜けようとしても無理である」と記されておりました。
なんでもかんでもハンマーだけで修理しようと思っても、むしろぶち壊すだけだからやめましょうね、ということを指摘しています。
常々思うところではありました。
学者、研究者、成功したビジネスパーソン。いわゆる「賢い」という肩書きのある人物が、テレビやSNSで専門外のどこかおかしなことを語っている。それが拡散されていく。
そのシステムは見抜かねばならないのに、どうすればよいか(ハロー効果という定義はあります)?
というと、このハンマーの話を使えば、きっちり説明できるわけです。
なぜ大河のことでハンマー話をしているのか?
『麒麟がくる』は、道具箱にハンマーしか入ってないと読解力が悪化する、ちょうどよいサンプルだと思えたのです。
タイトルの時点で、本作の背景には儒教があるとわかります。作中でも、何度も漢籍、漢詩が出てきた。
けれども【漢籍】【東洋思想】【儒教】【東洋医学】のネジを外すドライバーがないと解けはしない。そもそも麒麟が何か?と問われたら、むしろ明瞭に出現しない方が正解でしょう。
それでも「結局、麒麟はどこにいるんだ!」論争がやまないのは、儒教があると理解できないから。
日本人の漢籍や中国史由来の知識低下は指摘されることです。
1989年の天安門事件を契機に、中国離れが進み、さらに中韓蔑視と嫌悪が軽やかなトレンドとなった感もあり、現代の30代以上はカジュアルに中国蔑視、漢籍軽視の傾向が根付いたと感じます。
日本史には不可欠である「漢文」の不要論すら定期的に出てきます。
先行者ロボットやらチャイナボカンシリーズでケラケラ笑っていれば、そりゃあ漢籍で学ぶ知識なんて軽視するようになっても仕方ないでしょう。
しかし、2020年代ともなれば、それは非常に危険でもったいないことです。
中国はどんどん発展してゆく。となれば東西をつなぐ知識の担い手として、日本の出番はあった。
そこで漢籍や中国史知識を捨てたらどうなるか?そういう焦燥感がありました。
【漢籍】【東洋思想】【儒教】【東洋医学】が必要されるところに、【過去大河ドラマ】や【日本史】ハンマーで殴りかかっても、かえって事態は悪化します。
【イケメン】【芸能ニュース】【萌え】ドライバーでは絶対に解けない。
『麒麟がくる』は、そんな問題をも炙り出すドラマでした。
駒と東庵の不要論もかなり執拗にありましたね。
彼らの東洋医学知識は、思想の理解にも役立ちます。それを巧みにプロットに組み込んでおり、かつ医療考証もかなり綿密であった。しかし、肝心の見る側に【東洋医学】知識のドライバーがない。
本作はあえて難しい道を選びました。
【義】を再定義するなんて面倒なことは放り投げてよい。うわっつらでもいい、善良で綺麗なセリフをイケメンたちに言わせていればいい。愛妻家だと強調して、ほっこりきゅんきゅんセクシーに演じさせればよい。
それである程度ウケる。ヒットのセオリーです。
SNSがここまで発展したからには、バズるパワーワードを仕込めばそれである程度の数字は稼げます。
そういう反応だけがヒット作の【義】であるならば、そうしたって文句はないでしょう。
それでも、この作品と主人公である明智光秀は、面倒で理解されにくい、儒教による【義】の構築に挑みました。
漢籍を引用し、登場人物の言動に思想を反映させる。できあがったその像は、奥深く精緻極まりない。ゆえにハンマーで殴れば、ただただ割れてカケラになっていく……そうして欠けているものを炙り出し、そこをもう一度見直すべきではないかというところまで踏み込んできた。
【義】とは苦しみを伴うものだともわかった。
耳に痛いことを言えば、かえって嫌われる。楽しいことだけ考えていて、わきまえていた方が賢いと思われる。誰かのお気に入りになれる。
それでいいのか?
ご飯は食べないでおやつを食べていればいいじゃない! 楽しければいいじゃん! そういう見方はありました。
「大河ドラマなんて、わかっている結果だけ見ればいい。架空の人物だの新解釈だのついていくことをファンは求めていない」
そういう趣旨の分析もありました。
お説教臭さはなく、楽しいことだけをあっけらかんとする大河に対し「これこそ斬新だ!」と評価する声も少し前にありました。
私はそういう趣旨のことを見かけるたびに、憂鬱になりました。
上司のカラオケに拍手をするような、忖度による服従はもう懲り懲りだ、うんざりだ! もっともっと、難しく精緻なものを投げてきてくれ! そうじゃないと、海外のドラマに負けて終わるぞ!
と、そこで本作は、難易度を上げ、苦しい展開にした。
野菜嫌いでおやつばかりを食べたがる子どもに対し、それではいけないよ、と丁寧に説得するような、芯の通った【義】をつきつけました。
生きることには責任が伴うと示し、視聴者の思考回路や道徳を鍛える【義】がありました。
良薬は口に苦し、忠言は耳に逆らえども行いに利あり――です。
【礼】社会を維持するために守るべきこと
礼とは? 人間社会における秩序を円滑に維持するために必要とされる礼儀作法のこと。
大河ドラマとは大変な存在です。
通常の出演者はもちろん、主役ともなれば役者としてひとつの頂点に立ったとも言える。脚本もそうでしょう。
同時にリスクも大きい。
もしも低視聴率ともなれば、主演や脚本家に批判が集まり、後のキャリアに悪影響を及ぼすこともある。普段の私も厳しいことを書いてしまうため、そこを色々と指摘されたりします。
しかし、どうしたって批判は出てきます。
ゆえにNHKには、彼らを守る仕組みを考えて欲しいと思っていましたが、今年、その流れが少し変わってきました。
ハセヒロさんが降板騒動に怒っているという記事が出たとき、彼が否定するコメントを出したのです。
流石だな、やっぱりな、これでこそ総大将だなと感動しました。
各種メディアで出鱈目の飛ばし記事が出ても、言われっぱなしで終わることも多い。それが日本の芸能界への不信感でもありました。
海外ではドラマへの不満を出演者が言うこともあるし、おかしな報道には反論もします。
そういう動きがなく日本の芸能界はなんだかおかしい、不健全ではないか。と、そこへ風が通ったようで、スッキリしました。
大河や朝ドラにおける出演者バッシングはなかなか酷いものがあり、役者は徹底的に品定めされます。もちろん、それが演技評価ならよいですが、理不尽な目線も多い。
ネットで【エコーチェンバー】現象も発生するようになりました。
大河がらみで流れてくるニュースはピント外れのものが多く、とりわけ悪質だったものを振り返ってみましょう。
◆「ハセヒロさんより本木さんの方が派手で目立つ、食われる!」
劇中の活躍度で突っ込むならまだしも、キャストビジュアルの発表時点で、なんですか、これは。ご本人は受け流すでしょうけど、あまりにバカバカしい。
『スタジオパーク』で眞島秀和さんと居酒屋で飲んでも気付かれない話になったとき、ハセヒロさんが「薄いですからね」と語られ、やり場のない怒りに震えてしまいました。こういう人にそんなことを言わせるこの世界が憎いと思ってしまったのです。
東洋系の端正な顔は、むしろ世界的な需要があります。ソース顔の方が美形度が上だという昭和じみた決めつけはもう終わりにしましょうよ。
◆「どうせイケメン目当ての軽薄大河だ」と決めつけ、三傑のキャスティングミスをあげる
個人的には出演前から期待していた染谷さん。
初期の頃の叩かれ方は酷いものでした。
制作サイドが、新しい信長像を作り上げると言い切っていた以上、そこには何らかの意図があり、一視聴者として楽しみに見守りたいと思っていたのに、ともかくバッシングがひどかった。
それを逆転させた染谷さんはお見事としか言いようがありません。
彼ほどメンタルが強靭であればよいですが、こういうことだから三傑の高齢化問題が出てくるんでしょう。若手が頑張ろうにも、執拗に叩かれすぎたら心がへし折れますよ。
しかも演技そのものを見るよりも、ワインで言えばラベルを重視するような不可解さでした。
そんな中でも、チームとして脚本家や役者を守っているのを感じられたのが、今年でした。
◆ペース配分が悪い、もっとこの戦いが見たい
こういうニュースも定番でした。
癖が強い作品であったことは確か。ただ、これはもう池端さんの作家性、やりたいことに任せているという雰囲気はありました。
合戦の描き方に関しては、『麒麟がくる』では武将たちが兵法準拠で行動するので極めて合理的でした。
戦争の勝敗は、開戦前にほぼ決定している。
物量差をつける。地形を把握しておく。そういう事前準備を会話劇で説明することに重点を置いています。
そしてこれこそが歴史のリアルだと思いました。
スゴイ天才が無双で勝つ!
というのはあくまで願望ありきのもので、視聴率は伸びるかもしれませんが、目指すところはではない。
戦闘を描く技術はある。むしろ迫力という点ではこなれていて、VFXやドローン撮影技術の向上も感じられました。
◆時代考証が雑
時代考証についても、前述したツールの話が関係してくると思えます。
・明確にただの準備不足、知識不足とわかるもの
・悪意あるこじつけや隠蔽だと思えるもの
・変更の結果、悪意や差別的に結びついているもの
・作品当時に有力であり、かつあとで否定された説によるもの
・フィクションとして敢えて史実を変えているもの
この作品の場合、作劇上の必要性で変えているのに、そこを読み取れていないと感じられる批判が多かった。
大河ドラマはフィクションです。にも関わらず「史実と違う」と指摘するのは【文学】のドライバーが欠如している証拠でしょう。
確かに本作は、語彙力が高く、かつ漢籍由来の言葉を使用しており、理解が難しいのではないかと思うこともしばしばありました。
最終盤は本能寺へ向かう動機を高啓の漢詩で説明していて、本当に難易度が高い。
そこを丸めず、そのまま放送するところに、作家性への信頼を感じたものです。
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麒麟がくる感想あらすじレビュー最終回「本能寺の変」
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◆まちがった考証批判
衣装の色合い、女性が正座しないことへの批判がありました。
しかしここは史実をもとにきっちり反論していて、素早い沈静化を実現できました。
◆“オリキャラ”邪魔批判、演じる役者まで巻き込む
「駒はいらない!」ということに関しては、公式サイトでもさんざんその意義が説明されていました。庶民の目線から歴史を見ることを描くために必要であると。
作劇上の重要性もわかります。麒麟を連れてくる目標設定、足利義昭の悲嘆を描くうえで、駒は大きな役目を果たしています。
にも関わらずこういう報道が止まない。
東庵についても、帝の本音を引き出す。
菊丸は、光秀と家康を繋ぐ。光秀は別に天海になる必要はありません。
伊呂波太夫は、松永久秀の精神性を引き継ぐ。近衛前久との交流を繋ぐ。
かれらは魔法を使うとか。無用なロマンスを入れるとか。過去にいた大河ヒロインのような真似は一切しておりません。
駒と東庵は、なにより【東洋医学】という要素を司る大きな意義があったのです。
この作品の根底に、医者を主役とするというコンセプトがありました。
【東洋医学】では、最上の医者は人のみならず、国の偏りや不均衡を指摘できるという思想があります。
韓国には『宮廷女官チャングムの誓い』、『ホジュン』シリーズ、『馬医』等、東洋医学をモチーフにした名作時代劇があります。
国や社会の均衡を欠くことの危うさを描くという意味において、医者の視点は極めて重要なのです。
『麒麟がくる』では医者を主役には据えないものの、その目線から歴史を見る点が大きな特徴でした。
東庵は織田信秀を診察し、もう長くはないと判断しました。
陽の気が勝り、体を冷やすために瓜を食べている。今はそこまで悪化していないものの、すでに均衡を失い、もたないと判断したのです。
あの描写は【本能寺の変】に向かう最終盤にまでつながっているといえます。
信長は安土城を日にたとえる。怒りやすく、血気盛んである。彼は【陽】です。
光秀は、描かれた月の前に座る。穏やかで心静か。彼は【陰】です。
陰陽の均衡が決壊すると、構造そのものまでおよぶ。
【東洋医学】の発想で謎解きをすると、見えてくるものはあるのです。
◆【麒麟がくる】と東洋医学(→link)
これだけ理由がありながら「意味不明」と不満に思うとすれば、読み取る力が欠けている可能性があります。
過去の大河には、ヒロイン味噌汁やおにぎりで歴史が動くような無茶苦茶なものもありました。
実在ヒロインであればそういう無茶ぶりが許されるものですか?
『麒麟がくる』でいえば、帰蝶の言動はフィクションであり、かなり大胆に動かしています。実在するか、そうでないか? その点だけで雑だとみなすことには無理があります。
本来、この手の議論は通過していると思っていました。
中村吉治氏は、百姓の歴史を学びたいと告げた際に「豚に歴史はありますか」と畳みかけられたと回想しています。
それだけ日本では稗史(はいし・公的な記録ではなく庶民などの民間伝承を含む歴史)軽視の傾向が強い。
これは世界的にみても特殊ではないか?と『麒麟がくる』への感想を見ていて痛感しました。
韓流にせよ、華流にせよ、西洋史題材のものにせよ。駒のような立ち位置のキャラクターは登場します。
それが「オリキャラは邪魔w」とここまで執拗に叩かれることはそうそうありません。
あったとしても「オリキャラだから」という理由ではない。
2010年代で世界最大のヒットドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』では、戦乱から逃げ惑う女性や子ども目線での展開に長い尺を使いました。そういう民衆の目線で描く歴史の重要性や意義が、それだけ理解されているのでしょう。
そしてこのことは歴史観そのものの危険性を意味するものでもあります。
日本の歴史観は英雄願望が強い。日本が誇れる歴史を語るとなるとすぐに英雄の話に持っていく。
けれども世界では、そういう英雄自慢ニーズはありません。
VODが広まり、今後は日本でも世界を見据えたドラマを作らなければならない。それなのに英雄史観という古臭いものにこだわり続け、ジェンダー観までもお粗末となったら誰も見向きもせず、日本のコンテンツはどんどん廃れていくでしょう。
本邦ドラマは日本人だけが見ていればいいという時代は終わっているのです。
これは社会を見る目や意識にも通じるものがあり、
【なぜ駒が叩かれるのか?】
という謎は解けました。
執拗に駒叩きをするSNSアカウントを見ていると、他にはグレタ・トゥーンベリさんや大坂なおみさん、女性政治家などを同様に執拗に叩く傾向がある。
要するに、主張の中身ではなく【属性】で批判する心理傾向が確認できます。
特定のアカウントを晒したりはしませんが、みなさんも追ってみればわると思います。
もうひとつ。『麒麟がくる』は不可解でなんだかモヤモヤする感覚がある。その理由づけとして「オリキャラ邪魔論」が定着したからこそ、安心して叩いているようにも思えました。
なぜそうなるのか?
帰蝶のことを考えてみますと、序盤の聖徳寺会見の頃には「目立ちすぎる」という批判があり、ネットニュースにもなっていました。
それが「帰蝶P」といった愛称が定着すると、川口春奈さんを褒めることこそがルールとして定着したように見えたのです。
とりあえず彼女を褒める――それがお約束という感じですね。
もちろん彼女は素晴らしかったですが、それとは切り離してネット上には妙なムーブメントがあった。
しかし、帰蝶にしたって、史実はほとんど不明です。
彼女の行動がいかに創作されたものか?を考えるとオリキャラの駒とそう変わりません。
異なる点があるとすれば「大河ファンの空気」でしょう。
空気を読むためにも、とりあえず駒を叩き、帰蝶を褒める。それがファンのみならず、ネットニュースでも広まっているのですから絶句するばかりです。
駒を叩いて「これぞ大河通!」と恍惚に浸る――そんな層への対応策は現実のニュースから学びました。
「お前なんて森喜朗と一緒だよ―――!」 妻の怒りの言葉のパンチに鈴木おさむは?(→link)
「駒は歴史に名を残さないうえに女、うろちょろするな!」って?
そんなもん、言動の中身でなくて肩書き見てるだろ、お前なんて森喜朗と一緒だよ!
『麒麟がくる』は作り手が迎合せず、役者の名声を守る姿勢、【礼】がありました。
駒を出した意図を語り、批判を封じる。駒を出す意義をインタビューや公式サイトではたびたび語られてきました。
門脇麦さんが低迷するというような記事もありましたが、新春時代劇にも彼女は出ています。
明日の時代劇を担う、唯一無二の女優を断固として守る! そういう気遣いがあるようで、私は安心できました。
どれだけ雑な叩き記事があろうが、信念を込めて育てる姿勢があれば、きっと彼女の未来は明るい。
脚本家を守る【礼】も感じました。
脚本家は「チーム体制である」と最初から明かされています。これは朝ドラ『スカーレット』以降もそうです。
これだけ長期スパンで、調べることが多いドラマとなれば、むしろ一人だけで脚本を手がけることは無理がある。脚本家はチーム体制にすべきだと、私は強く思っていました。
いや、そもそも単独だったのでしょうか?
ここ数年の大河と朝ドラにおいては、整合性矛盾、語彙力の違いが見られ、実際はチーム体制であるにも関わらず、慣習的な隠蔽をしているのではないかと思われる節があり、私もそう指摘してきました。
今回を機にそれがなくなれば、非常に歓迎すべきこと。『麒麟がくる』には、常にそういう意識が感じられました。
作り手を守る【礼】がある。
リスクばかりが高かったら、大河に関わりたい人は減るばかり。最低限のこととして、出演者とスタッフを守る【礼】を備えている。そのことが周囲に伝わり、互いに労わる気概が感じられるのです。
そういう心根。人徳のようなもの。堅苦しい、生真面目だと言われて、冷笑されてしまうもの。
実はそういうことこそ大事なのだと、このドラマは思い出させてくれました。
【智】新知見を取り入れ、歴史を見直し、新しい判断を下す
智とは? 知識を取り入れ、それを生かすこと。
本作は、三英傑はじめ、歴史上の人物を再構築することを掲げておりました。
これは果断です。
Amazonプライムの『MAGI』を見て、その後の大河出演者が気の毒でなりませんでした。
どうすれば吉川晃司さんの織田信長に勝てる?
緒形直人さんの豊臣秀吉に勝てる?
こういう時は「迂直の計」という概念があります。
従来のルートが曲がりくねったものであれば、まっすぐ突き進むべし!
丹念な研究をもとに、まさしくこの「迂直の計」を行ったのが本作と言えます。
しかしこれが前述の「ハンマーで問題を壊す」問題にも通じるのですが……計略に用いた新研究知見を解くドライバーがないと、解き明かせません。
◆「いい人だけど間が悪い」「パワハラに耐えかねて爆発」…『麒麟がくる』の光秀をもう一度考える――青木るえか「テレビ健康診断」『麒麟がくる』(→link)
「光秀はパワハラに苦しんだだけなの? ちっちゃくない?」
こういう声は出てくるでしょう。似たような反応は、NHKの別の看板ドラマでもありました。
2018年『半分、青い。』と2020年『スカーレット』です。
どちらも主要人物やヒロイン夫妻が離婚します。
ところが、浮気、DV、ネグレクト……そういった決定的な要素がなかったため、NHKが遠慮したのだとか、性描写を避けたとか、そんな推察がありました。
これは【認知科学】とりわけ【認知心理学】というドライバーがないと、読み解けないかもしれません。
決定的な断絶がなくとも、色々と間の悪いことがあったり、神経に触ることを繰り返されると、人間の精神は壊れます。
そんな些細なことが動機でよいのか? いや、その些細なことで破滅が起こる……そんな研究が日々進んでいるんですね。
光秀は間が悪い。それはその通り。光秀は斎藤道三、斉藤高政、朝倉義景にきついことを言い、いらぬトラブルを招きました。
要領がよいとは言えない。どこか“ズレてる”といえばそう。
けれどもこれだって先天的な要素、彼の本質、性格由来のところはあり、「空気読みなよ」と指摘したところで仕方ありません。
直そうにもできない。周囲が理解するなり、サポートの必要がある。
光秀の精神的な均衡は、愛妻・煕子の死によって深刻化しました。周囲の支えや理解があれば、彼はここまで傷つかなかったでしょう。
そこを察していたのか、駒やたまは彼のために薬を調合していましたね。ストレスを察知し、和らげないと彼は危ういと感じるものがあったはず。
光秀は『鬼滅の刃』の炭治郎に通じるところがあります。
ズレている。徳がある。彼は変わっています。先天性で、本人だってつらい。そこは周囲が理解してあげたい。
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同様に織田信長も【認知心理学】をふまえたような造形でした。
それなのに「よくある漫画のサイコパスみたい」で片付けられるのはどうなのか。
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こうした【認知心理学】のアプローチは、陰謀論を一蹴する効能もあります。
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尽きぬ「本能寺の変」黒幕説。その背景にある人間の心理を考察してみますと……。
「あれほど素晴らしい信長が、そんな油断をするわけがない」
「光秀ほどの人物が、突発的なことをするわけがない!」
「これほどのことだ、きっと奥深い真相があるのだろう」
そういう需要があれば、供給もついてくる。荒唐無稽であろうが、そういう本が売れて、記事が読まれるのであれば、そこは供給されます。
このことは歴史トリビアのみならず、現代にもあてはまります。
なぜ陰謀論ニュースが飛び交うのか?
どうしてあの人は無茶苦茶な陰謀論にハマってしまう?
コロナの時代だからこそ考えたい、そんな問題解決のヒントは【認知心理学】にあります。
◆ バイデン新政権発足で動揺と分裂 陰謀論Qアノン信奉者たち(→link)
こうした【認知心理学】を元にした歴史研究、書物、フィクションは最近増えています。むしろそこを踏まえなければ陳腐になる。
民放のドラマや『鬼滅の刃』といった漫画でも、こうした【認知心理学】を踏まえたアプローチをしているのです。
NHKはその点、Eテレがあるだけに一枚上手です。極めて巧みに【認知心理学】をふまえて歴史を再構築してきた。
それが『麒麟がくる』という作品です。
けれども、この【認知心理学】の話をするとややこしいことになります。
理解されないだけならまだよく、ともすれば嘘をついていると流されかねません。こうしたアプローチは、若年層の方が偏見なく受け入れられる傾向があります。
具体的にいえば、2020年時点での20代以下です。
年代が上の方が、
「この程度でくじけるなんて根性ないよ」
となってしまい、理解が至らない傾向があるんですね。
これだけ精神を痛めつけるいじめ、パワハラ、SNSの誹謗中傷が問題化されているにも関わらず、心を傷つけることを過小評価する傾向には、深い懸念と憂慮を覚えずにはいられません。
僭越ながら
【ニューロ・ダイバーシティ】
【アドボガシー】
といった概念から取り組んでみることをオススメします。
【信】互いを信頼し合う誠実さ
信とは? 確信を互いに持ち、正直に誠実に振る舞い合うこと。
ドラマとは、フィクションとは、見る者の反応がなければ反省しない。
ハセヒロさんは、収録が終わっても最終回が放映されるまでは終わった気がしないと語っておりました。
見る側の反応、作る側と見る側の信頼関係は、とても大事だと私も思います。
この作品が秀逸である理由の一つに、放映し、感想を探ることで完成するという意識が感じられたことでした。
感想を探るうちに、大河ドラマや歴史意識が直面する問題まであぶり出される。そんなことも深慮していた。
批判は当然のことながらある。ただ、それを先回りしているような雰囲気がどこかにあった。
難易度も高い。漢詩や漢籍を伏線とし、語彙も難しい。『麒麟がくる』は、無愛想なドラマだったかもしれません。
頑固な職人がうまい料理を作って出すけれども、必要以上の愛嬌は振りまかない。そういうものを求めるのであれば、そちらのファミリーレストランにどうぞ。そう言い切る確信を感じました。
それは2020年という時代に合わせた態度であったと思います。
2010年代は、スマートフォンが普及しました。
スマホ片手にドラマを見ていたら、難しい展開なんて理解できなくなるだろう。要所要所で盛り上げていけばよい。それをまとめてネットニュースにすればヒット作ができあがる。
そんなセオリーがあったのです。
2012年『平清盛』でのファンアートの盛り上がりを受け、視聴率が低くともファンダムの熱気によって成否をはかる動きも出ていました。作り手もそれを意識していたのか、公式サイトがファンアートを募集していたこともあります。
確かに2010年代前半は、それが有効な戦略であったでしょう。
当時最大のヒット作とされた2014年『軍師官兵衛』は典型例です。
あの作品は器用でした。主人公をずっと好青年として描いておきながら「中国大返し」や「関ヶ原の合戦」になると既視感のある腹黒さと野心を見せる。
シナリオとしての整合性は取れていないものの、瞬間最大風速を捉える巧みさがあった。
脚本家の前川洋一さんは『麒麟がくる』にも参加しています。
そこで確信したことがあります。脚本は一人で仕上げるものではない。作家性ではなく、ニーズやヒットのセオリーを聞き入れねばならない。それがプロの仕事とはいえ、それで作風が変わるとすれば気の毒なものはあります。
2010年代前半とは、そういうスマホ世代へのセオリーが有効であったと思えるのです。SNSで盛り上げて、それをまとめたネットニュース、いわゆる「こたつ記事」を生産できれば勝てたのです。
けれども、2010年代後半ともなると、むしろその弊害が露わになってきた。
これまた研究の成果があらわれています。
【有毒ファンダム】という問題です。
『スター・ウォーズ』、『ハリー・ポッター』、『ゲーム・オブ・スローンズ』、マーベル・シネマティック・ユニバースのような長期的な人気シリーズにおいて、展開が気に入らないファンが意図的に毒を撒くようなことをする。
ファンであることを盾に取り、自分たちが望むような展開にしろと作り手に要求を通すようになったのです。
◆ テン年代の「ファンダム」の熱狂。SNSがファンとスターの景色を変えた(→link)
◆ 『スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明け』監督、有毒ファンダム問題にコメント「僕もSWの全てを愛してはいない」 ─ 『最後のジェダイ』監督も回顧 (→link)
◆ 「ゲーム・オブ・スローンズ 最終章」作り直し求める署名運動、サンサ&ブラン役俳優が苦言 ─ 「単なる無礼」「幼稚な行動」(→link)
Rotten Tomatoesは、この問題を受けて改革に取り組むしかありませんでした。
◆ 米レビューサイト「Rotten Tomatoes」劇場公開前の観客評価機能を終了 ─ 『キャプテン・マーベル』への荒らし行為に対策講じる(→link)
ファンとの距離が近くなること。フィードバックが得られることはよい。
けれども、それはバランス次第。
距離が近すぎることによる弊害は、ついに人命にまで関わることとなったのです。
◆“強制わいせつ事件”も起きていた【テラスハウスの闇】 木村花さんを追い詰めた「過剰演出」と「悪魔の契約書」(→link)
『麒麟がくる』では、ともかくスルーやナレという見出しのネットニュースが多かったものです。
けれども、膨大な歴史をすべて丹念に描ききれるワケがなく、取捨選択は作家性の自由。あまりにそこばかり言われすぎることへの違和感はあります。
スルーにせよ。ナレにせよ。ロスにせよ。ネットやSNSで流行した言葉です。
そもそもそれを流されて使うことへの違和感もありますが、ともかく距離をどうとって作家性を保つか?というのが重要になります。
◆ 「青天を衝け」に追い風 「麒麟がくる」光秀の“ナレ死”でも高視聴率(→link)
インターネットの弊害研究は、やっと成果が出てきたばかり。
進展と研究が追いつかない、いたちごっこ状態で、例えばSNSへの投稿は【エコーチェンバー】【ノイジーマイノリティ】といった害悪論が見出されてきています。
ページビューだけを換算するネット記事の弊害。誘導。陰謀論……様々なマイナス面がようやく表面化してきました。
いっそのこと、ネットの影響から切り離すこと――それは作り手と視聴者の間に【信】がなければできないことです。
そういう【信】の構築は、ポストコロナ時代に必須となってきていることでもありましょう。
大河ドラマと観光の見直しも、もはや目を背けることはできません。
コロナ禍の結果として、観光が奮わない危機が到来したのが本作です。ただ、コロナ禍は潜在的にあった問題をあぶりだす効果もあった。
大河の観光効果は、昭和ならいざ知らず、令和ともなれば限定的。
大河ドラマ館に入場者が来ない。タイアップイベントの参加者が一桁だった。むしろ赤字になる。
そんな悲惨な状況が2010年代には発生し、大河と観光というビジネスモデルはもう古びてしまいました。
歴史観光を担当する方から、こういう話を聞いたこともあります。
「もうアニメやソーシャルゲームとタイアップを図ったほうがいい」
「海外へのアピールが薄い」
「そもそも一年限定」
もう大河と観光タイアップは古いのではないか?
そもそも全国一律で受信料を徴収しておきながら、特定の地域ばかりに利益がある構造はおかしいのではないか?
それでかえって赤字になる年すらあるのだから手に負えない。
◆ 大河「いだてん」記念の2施設が閉館…入館者数は目標に届かず(→link)
コロナさえなければ……そう言われることもある『麒麟がくる』。
けれども大方の問題はコロナ以前にありました。顕在化した問題に対応したこのドラマは、誠実かつ【信】を重視していた。
大河ドラマを見ていると、見る側のことを信じていない、軽んじているのではないか?という疑念がありました。
広告代理店勤務経験者が「偏差値40向けに作るべし」と先輩に言われたという話が数年前に炎上していたのを思い出します。
それだけでなく、結局、テレビ局もNHKもそうじゃないか? と、大河を見るたびに思ったことは何度もあります。
ネットニュースでも、歴史ファンはケチをつけるとか面倒だとか。大河ファンは疲れているから頭を使いたくないとか。そういうものも流れてくる。
ハッシュタグはなるべく見ないようにしていましたが、たまに見ると何かに流されているような、ヒントを見落とした感想も多い。
感想なんて書いていると、罵詈雑言はしょっちゅうあります。
むしろ否定する意見しか心にはとどまらない。私は罵倒されるために書いているのか……と思ったこともあります。むしろ常にそうです。自分の意見や感想が届くことに期待はありません。
作り手も見る側も、相互に通じ合えることはない――それが普通なんだと感じていました。私の精神状態が悪いということもあるのでしょうが、思い出すのはこんなところです。
君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず――。
優れたものは同意しながらも己の主体性を保つが、そうでないものは同意迎合し、主体性を失ってしまう。そういう悪しき循環を感じたものです。
そういう悪循環を断ち切ることができたのは、『麒麟がくる』の高い作家性と個性ゆえでした。
ネットニュースを見て、特定の人物の出番を増やすとか、削るとか、そうなことはしない。
むしろ頑固な作家性を保ち、このドラマには「非風非幡」という独自性がありました。
幡(はた)がたなびいている。それは幡そのものが動くためか、風が動かしているのか? そんな論争が起きたとき、慧能(えのう)はこう言ったのです。
「さにあらず、動いているの幡でもない、風でもない、見るものの心であろう」
物事は何事も心が原動力になって動かす。
歴史もそう。【本能寺の変】における黒幕説を全て否定し、最終決定権は明智光秀の心にある、心が動かす、そう言い切りました。
ことあるごとに「あの合戦を描かないなんて、スルーはありえない」と言われ続けた『麒麟がくる』。
けれども、どんな心の動きを察知して戦うのか、そこに至るまでの心理描写は常に丁寧でした。
用兵の道は心を攻むるを上となし、城を攻むるを下となす。心戦を上となし、兵戦を下となす――。
これはドラマでもそうだと思えます。
心を描くことこそ、2020年代の歴史劇、ドラマそのものの最先端なのでしょう。
心が傷めば人はとてつもないことを起こしてしまう。それは今も昔も同じであると、本作はシンプルな答えを出しています。
そのせいで全員から理解はされなくとも、わかる人はきっといる、そんな【信】があればこそ、本作は高い作家性を保てました。
ドラマの作り手が見る側を侮らず、信じていると思えた、そんな誠実な作品です。
『論語』
子貢(しこう)政(まつりごと)を問う。
子曰く、「食を足(た)し、兵を足し、民は之(これ)を信にす」と。
子貢曰く、「必ず已(や)むを得ずして去らば、斯(こ)の三者に於いて何をか先にせん」と。
曰く、「兵を去らん」と。
子貢曰く、「必ず已(や)むを得ずして去らば、斯(こ)の二者に於いて何をか先にせん」と。
曰く、「食を去らん。古(いにしえ)より皆死有り。民信無くんば立たず」と。
子貢は、政治について問いかけた。
孔子は言った。
「まず食料だ、そして軍事力だ。そして民には信が必要だ」
子貢はこう尋ねた。
「もし、やむを得ず、この三者のうちから選ぶのだとすれば、まずは何を優先しますか?」
孔子は答えた。
「軍事力の優先度を落とす」
子貢はさらに問いかけた。
「じゃあ、さらにそのうち二者から絞るとすれば?」
孔子は答えた。
「食料を落とす。昔から人は死をいつか迎えるものだ。けれども、信がなければ、民は一日たりとも生きることすらできない」
これをドラマに当てはめるのであれば、食料はいわば視聴率であり、【信】とは見る側と受け手にある誠実さだと思います。
こんなに厳しい状況の中、本作は最後まで【信】を残した。
だからこそ、あんな大胆な終幕を迎えた。そう思えるのです。
お花畑だのとして理想論が冷笑される。そんな時代が続いていく中で、孔子の唱えた理論を貫いた。
それは明智十兵衛光秀一人のことではなく、このドラマの作り手皆がそうでした。
そんな本作には、敬意をこめて最後にこの言葉を送ります。
徳は孤ならず、必ず隣有り――。
誠実に、徳をもって、何かを作り続ければ、きっとわかる人が現れる。不器用だったかもしれない。タイミングの悪さはあった。
それでもこの作品は走りきり、できる限り最善の結果を残しました。
ありがとうございました。
こんなに誠実で、見た後に爽快感のあるドラマはありません。
大変な時代に、誠意ある仕事をこなした本作の製作者の皆様に、心より御礼を申し上げます。
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【参考】
麒麟がくる/公式サイト

































