麒麟がくる総集編

絵・小久ヒロ

麒麟がくる感想あらすじ

麒麟がくる総集編(本日2/23放送)感想あらすじ視聴率「仁義礼智信」

こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
麒麟がくる総集編感想あらすじ
をクリックお願いします。

 

【礼】社会を維持するために守るべきこと

礼とは? 人間社会における秩序を円滑に維持するために必要とされる礼儀作法のこと。

大河ドラマとは大変な存在です。

通常の出演者はもちろん、主役ともなれば役者としてひとつの頂点に立ったとも言える。脚本もそうでしょう。

同時にリスクも大きい。

もしも低視聴率ともなれば、主演や脚本家に批判が集まり、後のキャリアに悪影響を及ぼすこともある。普段の私も厳しいことを書いてしまうため、そこを色々と指摘されたりします。

しかし、どうしたって批判は出てきます。

ゆえにNHKには、彼らを守る仕組みを考えて欲しいと思っていましたが、今年、その流れが少し変わってきました。

ハセヒロさんが降板騒動に怒っているという記事が出たとき、彼が否定するコメントを出したのです。

流石だな、やっぱりな、これでこそ総大将だなと感動しました。

各種メディアで出鱈目の飛ばし記事が出ても、言われっぱなしで終わることも多い。それが日本の芸能界への不信感でもありました。

海外ではドラマへの不満を出演者が言うこともあるし、おかしな報道には反論もします。

そういう動きがなく日本の芸能界はなんだかおかしい、不健全ではないか。と、そこへ風が通ったようで、スッキリしました。

大河や朝ドラにおける出演者バッシングはなかなか酷いものがあり、役者は徹底的に品定めされます。もちろん、それが演技評価ならよいですが、理不尽な目線も多い。

ネットで【エコーチェンバー】現象も発生するようになりました。

大河がらみで流れてくるニュースはピント外れのものが多く、とりわけ悪質だったものを振り返ってみましょう。

◆「ハセヒロさんより本木さんの方が派手で目立つ、食われる!」

劇中の活躍度で突っ込むならまだしも、キャストビジュアルの発表時点で、なんですか、これは。ご本人は受け流すでしょうけど、あまりにバカバカしい。

『スタジオパーク』で眞島秀和さんと居酒屋で飲んでも気付かれない話になったとき、ハセヒロさんが「薄いですからね」と語られ、やり場のない怒りに震えてしまいました。こういう人にそんなことを言わせるこの世界が憎いと思ってしまったのです。

東洋系の端正な顔は、むしろ世界的な需要があります。ソース顔の方が美形度が上だという昭和じみた決めつけはもう終わりにしましょうよ。

◆「どうせイケメン目当ての軽薄大河だ」と決めつけ、三傑のキャスティングミスをあげる

個人的には出演前から期待していた染谷さん。

初期の頃の叩かれ方は酷いものでした。

制作サイドが、新しい信長像を作り上げると言い切っていた以上、そこには何らかの意図があり、一視聴者として楽しみに見守りたいと思っていたのに、ともかくバッシングがひどかった。

それを逆転させた染谷さんはお見事としか言いようがありません。

彼ほどメンタルが強靭であればよいですが、こういうことだから三傑の高齢化問題が出てくるんでしょう。若手が頑張ろうにも、執拗に叩かれすぎたら心がへし折れますよ。

しかも演技そのものを見るよりも、ワインで言えばラベルを重視するような不可解さでした。

そんな中でも、チームとして脚本家や役者を守っているのを感じられたのが、今年でした。

◆ペース配分が悪い、もっとこの戦いが見たい

こういうニュースも定番でした。

癖が強い作品であったことは確か。ただ、これはもう池端さんの作家性、やりたいことに任せているという雰囲気はありました。

合戦の描き方に関しては、『麒麟がくる』では武将たちが兵法準拠で行動するので極めて合理的でした。

戦争の勝敗は、開戦前にほぼ決定している。

物量差をつける。地形を把握しておく。そういう事前準備を会話劇で説明することに重点を置いています。

そしてこれこそが歴史のリアルだと思いました。

スゴイ天才が無双で勝つ!

というのはあくまで願望ありきのもので、視聴率は伸びるかもしれませんが、目指すところはではない。

戦闘を描く技術はある。むしろ迫力という点ではこなれていて、VFXやドローン撮影技術の向上も感じられました。

◆時代考証が雑

時代考証についても、前述したツールの話が関係してくると思えます。

・明確にただの準備不足、知識不足とわかるもの

・悪意あるこじつけや隠蔽だと思えるもの

・変更の結果、悪意や差別的に結びついているもの

・作品当時に有力であり、かつあとで否定された説によるもの

・フィクションとして敢えて史実を変えているもの

この作品の場合、作劇上の必要性で変えているのに、そこを読み取れていないと感じられる批判が多かった。

大河ドラマはフィクションです。にも関わらず「史実と違う」と指摘するのは【文学】のドライバーが欠如している証拠でしょう。

確かに本作は、語彙力が高く、かつ漢籍由来の言葉を使用しており、理解が難しいのではないかと思うこともしばしばありました。

最終盤は本能寺へ向かう動機を高啓の漢詩で説明していて、本当に難易度が高い。

そこを丸めず、そのまま放送するところに、作家性への信頼を感じたものです。

麒麟がくる第44回(最終回)感想あらすじ視聴率「本能寺の変」

続きを見る

◆まちがった考証批判

衣装の色合い、女性が正座しないことへの批判がありました。

しかしここは史実をもとにきっちり反論していて、素早い沈静化を実現できました。

◆“オリキャラ”邪魔批判、演じる役者まで巻き込む

「駒はいらない!」ということに関しては、公式サイトでもさんざんその意義が説明されていました。庶民の目線から歴史を見ることを描くために必要であると。

作劇上の重要性もわかります。麒麟を連れてくる目標設定、足利義昭の悲嘆を描くうえで、駒は大きな役目を果たしています。

にも関わらずこういう報道が止まない。

NHK大河『麒麟がくる』最終回に「生前説できたか!」と大盛り上がり!(→link

「駒がくる」が相応しい?「麒麟がくる」最終回に消化不良の声(→link

東庵についても、帝の本音を引き出す。

菊丸は、光秀と家康を繋ぐ。光秀は別に天海になる必要はありません。

伊呂波太夫は、松永久秀の精神性を引き継ぐ。近衛前久との交流を繋ぐ。

かれらは魔法を使うとか。無用なロマンスを入れるとか。過去にいた大河ヒロインのような真似は一切しておりません。

駒と東庵は、なにより【東洋医学】という要素を司る大きな意義があったのです。

この作品の根底に、医者を主役とするというコンセプトがありました。

【東洋医学】では、最上の医者は人のみならず、国の偏りや不均衡を指摘できるという思想があります。

韓国には『宮廷女官チャングムの誓い』、『ホジュン』シリーズ、『馬医』等、東洋医学をモチーフにした名作時代劇があります。

国や社会の均衡を欠くことの危うさを描くという意味において、医者の視点は極めて重要なのです。

『麒麟がくる』では医者を主役には据えないものの、その目線から歴史を見る点が大きな特徴でした。

東庵は織田信秀を診察し、もう長くはないと判断しました。

陽の気が勝り、体を冷やすために瓜を食べている。今はそこまで悪化していないものの、すでに均衡を失い、もたないと判断したのです。

あの描写は【本能寺の変】に向かう最終盤にまでつながっているといえます。

信長は安土城を日にたとえる。怒りやすく、血気盛んである。彼は【陽】です。

光秀は、描かれた月の前に座る。穏やかで心静か。彼は【陰】です。

陰陽の均衡が決壊すると、構造そのものまでおよぶ。

【東洋医学】の発想で謎解きをすると、見えてくるものはあるのです。

◆【麒麟がくる】と東洋医学(→link

これだけ理由がありながら「意味不明」と不満に思うとすれば、読み取る力が欠けている可能性があります。

過去の大河には、ヒロイン味噌汁やおにぎりで歴史が動くような無茶苦茶なものもありました。

実在ヒロインであればそういう無茶ぶりが許されるものですか?

『麒麟がくる』でいえば、帰蝶の言動はフィクションであり、かなり大胆に動かしています。実在するか、そうでないか? その点だけで雑だとみなすことには無理があります。

本来、この手の議論は通過していると思っていました。

中村吉治氏は、百姓の歴史を学びたいと告げた際に「豚に歴史はありますか」と畳みかけられたと回想しています。

それだけ日本では稗史(はいし・公的な記録ではなく庶民などの民間伝承を含む歴史)軽視の傾向が強い。

これは世界的にみても特殊ではないか?と『麒麟がくる』への感想を見ていて痛感しました。

韓流にせよ、華流にせよ、西洋史題材のものにせよ。駒のような立ち位置のキャラクターは登場します。

それが「オリキャラは邪魔w」とここまで執拗に叩かれることはそうそうありません。

あったとしても「オリキャラだから」という理由ではない。

2010年代で世界最大のヒットドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』では、戦乱から逃げ惑う女性や子ども目線での展開に長い尺を使いました。そういう民衆の目線で描く歴史の重要性や意義が、それだけ理解されているのでしょう。

そしてこのことは歴史観そのものの危険性を意味するものでもあります。

日本の歴史観は英雄願望が強い。日本が誇れる歴史を語るとなるとすぐに英雄の話に持っていく。

けれども世界では、そういう英雄自慢ニーズはありません。

VODが広まり、今後は日本でも世界を見据えたドラマを作らなければならない。それなのに英雄史観という古臭いものにこだわり続け、ジェンダー観までもお粗末となったら誰も見向きもせず、日本のコンテンツはどんどん廃れていくでしょう。

本邦ドラマは日本人だけが見ていればいいという時代は終わっているのです。

これは社会を見る目や意識にも通じるものがあり、

【なぜ駒が叩かれるのか?】

という謎は解けました。

執拗に駒叩きをするSNSアカウントを見ていると、他にはグレタ・トゥーンベリさんや大坂なおみさん、女性政治家などを同様に執拗に叩く傾向がある。

要するに、主張の中身ではなく【属性】で批判する心理傾向が確認できます。

特定のアカウントを晒したりはしませんが、みなさんも追ってみればわると思います。

もうひとつ。『麒麟がくる』は不可解でなんだかモヤモヤする感覚がある。その理由づけとして「オリキャラ邪魔論」が定着したからこそ、安心して叩いているようにも思えました。

なぜそうなるのか?

帰蝶のことを考えてみますと、序盤の聖徳寺会見の頃には「目立ちすぎる」という批判があり、ネットニュースにもなっていました。

それが「帰蝶P」といった愛称が定着すると、川口春奈さんを褒めることこそがルールとして定着したように見えたのです。

とりあえず彼女を褒める――それがお約束という感じですね。

もちろん彼女は素晴らしかったですが、それとは切り離してネット上には妙なムーブメントがあった。

しかし、帰蝶にしたって、史実はほとんど不明です。

彼女の行動がいかに創作されたものか?を考えるとオリキャラの駒とそう変わりません。

異なる点があるとすれば「大河ファンの空気」でしょう。

空気を読むためにも、とりあえず駒を叩き、帰蝶を褒める。それがファンのみならず、ネットニュースでも広まっているのですから絶句するばかりです。

駒を叩いて「これぞ大河通!」と恍惚に浸る――そんな層への対応策は現実のニュースから学びました。

「お前なんて森喜朗と一緒だよ―――!」 妻の怒りの言葉のパンチに鈴木おさむは?(→link

「駒は歴史に名を残さないうえに女、うろちょろするな!」って?

そんなもん、言動の中身でなくて肩書き見てるだろ、お前なんて森喜朗と一緒だよ!

『麒麟がくる』は作り手が迎合せず、役者の名声を守る姿勢、【礼】がありました。

駒を出した意図を語り、批判を封じる。駒を出す意義をインタビューや公式サイトではたびたび語られてきました。

門脇麦さんが低迷するというような記事もありましたが、新春時代劇にも彼女は出ています。

明日の時代劇を担う、唯一無二の女優を断固として守る! そういう気遣いがあるようで、私は安心できました。

どれだけ雑な叩き記事があろうが、信念を込めて育てる姿勢があれば、きっと彼女の未来は明るい。

脚本家を守る【礼】も感じました。

脚本家は「チーム体制である」と最初から明かされています。これは朝ドラ『スカーレット』以降もそうです。

これだけ長期スパンで、調べることが多いドラマとなれば、むしろ一人だけで脚本を手がけることは無理がある。脚本家はチーム体制にすべきだと、私は強く思っていました。

いや、そもそも単独だったのでしょうか?

ここ数年の大河と朝ドラにおいては、整合性矛盾、語彙力の違いが見られ、実際はチーム体制であるにも関わらず、慣習的な隠蔽をしているのではないかと思われる節があり、私もそう指摘してきました。

今回を機にそれがなくなれば、非常に歓迎すべきこと。『麒麟がくる』には、常にそういう意識が感じられました。

作り手を守る【礼】がある。

リスクばかりが高かったら、大河に関わりたい人は減るばかり。最低限のこととして、出演者とスタッフを守る【礼】を備えている。そのことが周囲に伝わり、互いに労わる気概が感じられるのです。

そういう心根。人徳のようなもの。堅苦しい、生真面目だと言われて、冷笑されてしまうもの。

実はそういうことこそ大事なのだと、このドラマは思い出させてくれました。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-麒麟がくる感想あらすじ
-

© 2021 BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)