江戸の幕府も終わり頃――。
【幕末の三舟】と呼ばれる、有能な幕臣がおりました。
名前に「舟」がつく三名の武士で、おそらくや皆さん一人は知っているはず。
勝海舟です。
坂本龍馬や西郷隆盛など、名だたる志士たちに影響を与えた幕府の麒麟児ですね。
では二人目は?
こちらは幕末ファンであればおそらくご存知の……山岡鉄舟です。
江戸無血開城に向けて、西郷隆盛と会談した話が有名ですな。
そして三人目。
勝海舟に「馬鹿正直」と評価された男――高橋泥舟です。
泥の舟と書いて「でいしゅう」とは珍妙な字面ですが、肖像を見る限りはキリッとした顔立ちで、俳優の仲代達矢さんを彷彿とさせますね。
なぜ高橋泥舟は勝にそう評されたのか?
明治36年(1903年)2月13日は、その命日。
槍一筋に生きた男の生涯を振り返ってみましょう。
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「幕末三舟」って何をしたの?
時は幕末。
時代の変化を察知し、「これからは海外だ!」と蘭学をひたすら学んだ勝海舟や福沢諭吉のような人物もいれば、時流など一切無視して、ひたすら武術を極めた人物もおりました。
山岡鉄舟の義兄・高橋泥舟もその一人です。
実は鉄舟と泥舟は親戚。
山岡の妻・英子は、高橋の妹だったのです。
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泥舟の経歴を見る前に、まずは幕末三舟の年齢から確認しておきたいと思います。
勝海舟:1823年3月12日
高橋泥舟:1835年3月15日
山岡鉄舟:1836年7月23日
参考までに他の志士を掲載しておきましょう。
西郷隆盛:1828年1月23日
近藤勇:1834年11月9日
坂本竜馬:1836年1月3日
みんな年齢が近く、勝海舟だけが一回り上という印象ですね。
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もう一つ、事前に確認しておきたいことがあります。
実はこの三舟、いずれも「江戸開城」と深い関わりがあります。
歴史の授業では、
【西郷隆盛と勝海舟が話し合って決めた】
と簡略化されますが、事前の折衝やら何やらあり、そこにいたのがこの3名だったのです。
勝海舟:西郷と江戸で会談→開城を決めた
山岡鉄舟:西郷と駿府で会談→勝との道筋を整えた
高橋泥舟:当初、使者に選ばれたが、徳川慶喜が側に置きたがったため、山岡に代わった
ざっとこんな感じで、ここから詳述していきましょう。
山岡家は鉄舟が、道場は泥舟が
天保6年(1835年)。
高橋泥舟は、江戸の旗本・山岡正業の二男として生まれました。のちに母方の高橋家へ養子に出され、高橋家を継いでいます。
山岡家は、槍術の名人を輩出した家柄。
高橋の兄・山岡静山も、古今無双の達人とされました。
のちに高橋の義兄となる山岡鉄舟が槍を習ったのがこの静山。しかし静山は27才という若さで急死してしまいます。
ここら辺の展開、ちょっと混乱するので、慎重に読んでくださいね。
山岡家:旗本の小野家に生まれた鉄太郎(鉄舟)が、静山と泥舟の妹である英子を娶り、山岡家を継ぐ
槍道場:泥舟(高橋家に養子入りしていた)が道場を継ぐ
静山が亡くなったとき、是非とも英子を娶り山岡家を継いで欲しいと鉄舟に頼んだのは、泥舟(当時は謙三郎と名乗っていた)です。
『めんどくさっ! 弟の泥舟が山岡家と道場を継げばいいじゃん!』
なんて思ってしまうかもしれませんが、そこは武家ですから色々と事情があったのでしょう。
槍術で官位までもらった
武芸達者で、天才的な槍術使い。
いつしか「海内無双」と呼ばれるようになった泥舟は、22才の頃には講武所の教授に命じられました。
そして彼は後に、朝廷から【従五位伊勢守】にまで任じられることになります。
勝海舟曰く、
「彼の技量を孝明天皇まで知ることになって、槍一本で伊勢守にまでなった」
とのこと。
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「馬鹿正直で命知らずな稽古をやった」とまで言われています。
開明派で『これからは大砲だ、軍艦だ』と思っていた勝にしてみれば、槍などに一生懸命になるのは時代錯誤だよ、というところでしょうか。
しかし、これは小馬鹿にしているわけではありません。
その誠意やひたむきさに対する賞賛も入り混じっての言葉です。
泥舟の真っ直ぐな性格が窺えます。
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