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【堺事件】
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切腹する者をクジ引きで決める
処刑される者の選び方は“くじ引き”でした。
隊長を含めた4人がまず死刑と決まり、他の16名は隊員の中からくじで選ぶことにしたのです。
場所は土佐稲荷神社(現・大阪府大阪市西区)。
室町幕府の六代将軍・足利義教のときもそうですが、昔はくじ引きそのものが神様の意志を尋ねるものとされていたので、必ずしもテキトーな方法ではありません。
※ただし義教の場合は、事前に将軍だと決まっていて、形式的にくじを引いただけとも
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結果、隊長の箕浦を含め、20~30代の壮年20名が決まりました。
処刑は、事件から8日経った2月23日、堺・妙国寺で執行。
フランス側からの立会は、艦長アベル・デュプティ=トゥアール以下水兵たちでした。
ここで土佐藩士たちは、最後の最後でフランス相手に意地を見せつけています。
なんと腹を切った後、自らの腸(はらわた)を掴みだして恫喝したというのです。
元々、土佐藩士たちは職務に忠実な人々でした。
彼らの横行を糺しただけ、という無念さが拭えなかったのでしょう。
フランス側の記録にあった切腹の描写
そもそも切腹で腹を切り裂き、中から臓物を引きずりだすことなど、医学的に可能なのか?
これに対し、当サイトの歴女医・馬渕まり先生は
「出血によるショックで途中で気を失う可能性は否めないが、相当な気合とテンションで乗り越えることもできる」
という趣旨の見解を切腹の記事で書かれております。
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実はこれと同様のケースが、織田信長の息子・織田信孝でもありました。
信孝は腹を切った後に壁に向かって臓物を投げつけ、切腹を命じた豊臣秀吉相手に怒りの辞世の句を詠んだというものです(同じくまり先生の切腹記事に記されておりますので興味がありましたらそちらへ)。
同エピソードは否定される方も多いですが、堺事件のときはフランス側の記録があるため、おそらく事実ではないでしょうか。
トゥアール艦長もさすがにショックが大きかったようで、フランス側の死者と同じ11名の土佐藩士が切腹したところで、処刑中止を要請。
日本側もこれを受け入れ、残りの9名は助命されています。
ロッシュは朝廷からの招待も受け
艦長は「帰路で他の藩士に襲われることを懸念した」ともいわれています。
が、本人の日記では「このような処刑では、戒めではなく侍の英雄視につながってしまうから中止させた」としているそうです。
おそらくフランス側としては、フランス革命でのギロチンのような大量処刑をイメージしていたのではないでしょうか。
あれは罪の有無や大きさよりも、見せしめや復讐の意味が大でしたから、同事件の処理でも似たような効果を期待していたところ、実際に切腹を目にしてみて、これはそうではないことに気付いた、と。
その後、明治天皇からもロッシュへ謝罪と朝廷への招待を兼ねた使者が立ちました。
ロッシュは「犠牲者と死刑執行済みの人数が同じになったので、他の9名は助命してかまわない」と伝え、招待にも応じています。
彼の参内時には明治天皇が直接謝意を伝え、無事に国家間の問題としては解決しました。
もしかしたら、この経験が大津事件のときにも活かされたかもしれません。
堺事件のとき、明治天皇は16歳という多感な年齢でしたから、強く印象に残ったことでしょう。
土佐の入田へ流刑となる
この間、処刑を免れた9名は熊本藩や広島藩に預けられていました。
ロッシュの参内が済んだ後、彼らには土佐の入田(現・高知県四万十市入田付近)への流罪が決まります。
「国のために異人と戦ったのに」ということで当初は納得できなかったようですが、「朝廷からのお達しだし、そんなに長くならないようにするから」ということで、何とか流罪を了承させたのだとか。
流罪なのに自国内。しかも袴・帯刀・駕籠つき、かつ庄屋の宇賀佑之進預かりという扱いでした。
江戸時代の刑罰でいえば「所払い(元々住んでいたところから追放する)」くらいの感じでしょうか。
流罪というと「死刑よりちょっとマシ」「島流し」というイメージがありますが、実際にはそうとも限らず、いくつかの段階に分かれていました。
江島生島事件の絵島も流刑になっていますが、離島ではなく、高遠藩(現・長野県伊那市)での幽閉になっています。
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とはいえ、絵島は生活の大部分に厳しく制限を加えられていました。
堺事件の生き残りたちはおそらくそこまでの扱いにはなっていないと思われます。
「異性絡みのスキャンダルより、外国人をブッコロしてしまった罪のほうが軽いの?」
そう考えるとスッキリしませんが、その辺は当時の社会通念・事の経緯・感情といった面が主な理由です。
それを示す逸話として、こんなものもあります。
大坂では切腹した11人を「ご残念様」と呼び
事件の舞台となった堺、そして大坂では、「土佐の攘夷が大当たり」などとはやす歌がはやり、切腹した11人を「ご残念様」と呼んで、お墓に参詣する者が絶えなかったそうです。
また、助命された9人は「ご命運様」と呼ばれ、彼らの処刑後に遺体を入れられるはずだった大がめに入って、幸運にあやかろうとする者もいたとか。それもどうよ。
流罪になった9人は、明治時代に入ってから正式に恩赦が出て、自由の身になりました。
それまでに病死してしまった人もいたそうなので、全員とはいきませんでしたが。
日本が欧米と対等に付き合えるようになるまでには、堺事件のように日仏双方でも多大なる犠牲があったんですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
堺事件/wikipedia