横井小楠

横井小楠/wikipediaより引用

幕末・維新

岩倉や春嶽に才能を見込まれながら暗殺された横井小楠とは一体何者?

時は明治2年(1869年)1月5日。

明治天皇皇后の侍読(じどく・家庭教師)だった才女・若江薫子(わかえにえこ)は、あるニュースに飛び上がって喜びました。

新政府参与の横井小楠が暗殺された――。

彼女はこんな風に思っていたのです。

「国学を修めながら、開国を唱えたあのような奸臣が殺されたとは、めでたい!」

薫子のような攘夷思想の持ち主がその死を喜んだという横井小楠。

実は極めて優秀な人物であり、彼がもし明治政府にいたのなら、もっと違った日本が出来ていたに違いない。

あの岩倉具視もそんな期待を抱いて登用したのです。

それがなぜ悲運の死に追い込まれてしまったのか?

横井小楠とは一体、どのような人物だったのか?

その生涯を振り返ってみましょう。

 


熊本藩に生まれた秀才

横井小楠は、幕末から明治にかけて活躍した人物としては、年長の部類に入ります。

生まれは文化6年(1809年)。

肥後藩士・横井時直と母・かずの次男として、熊本城下内坪井町(熊本市)に誕生しました。

は時存(ときあり)で、小楠は号です。

彼を引き立てた福井藩の松平春嶽は文政11年(1828年)生まれですから、親子ほどの年齢差があったことになります。

横井は若い頃から学業優秀であり、主な経歴はざっと以下の通り。

文化13年(1816年)8歳で藩校・時習館に入校

天保4年(1833年)居寮生となる

天保7年(1836年)の講堂世話役

天保8年(1837年)に時習館居寮長(塾長)になる

天保10年(1839年)江戸遊学・幕臣の川路聖謨、水戸藩士の藤田東湖と校友

天保11年(1840年)酒の席で失態を犯し、帰国禁足処分に

さすがに、9才にして「明倫館」の教師になった吉田松陰には勝てませんが、それでもかなりの秀才であったことがご理解いただけるでしょう。

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なお、ちょっと目を引く【酒席での失態】ですが、酒を飲みすぎてつい気が大きくなり、辛辣な政治批判をしたこととされています。

器物損壊とか、暴力ではなく、あくまで失言ですね。

今なら炎上ぐらいでしょうか。

彼自身も酒癖の悪さは自覚しており、藩の処分に不満どころか、むしろ当然だと受け止めたようです。

ともかく横井にとっての江戸遊学は、多くの有望者と知り合う絶好の機会でありました。

 


「肥後実学党」のリーダー

帰国した横井小楠は、藩の禁足処分がとけると、政治改革への志を強めました。

天保14年(1843年)、志を同じくする長岡監物・下津休也・荻昌国・元田永孚らとともに、『近思録』等の講学をスタート。

『近思録』といえば、大久保利通有馬新七らで知られる薩摩藩の【精忠組】も、このテキストを読むこところから始まっています。

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横井らの学習会は、藩校・時習館のあり方に異議を唱えるものでした。

幕末までまだ時間がありますが、早熟で志のある横井は、このままではいけないのだという志を抱いていたのです。

彼らが規範としたのは、李氏朝鮮の儒学者・李滉(イ ファン)です。

李氏朝鮮の儒学者である李滉の像/photo by Integral wikipediaより引用

真実の朱子学(=実学)を追究する彼らは、やがて「実学党」と呼ばれるようになります。

同時に横井は私塾で学問を教え始め、その門下生第一号が水俣の惣庄屋の子・徳富一敬でした。

この徳富の二人の子が、徳富蘇峰と徳富蘆花です。明治に活躍する秀才兄弟の父は、横井の弟子だったんですね。

「肥後実学党」を率いる横井の名声は、藩の枠を越えて広がり始めました。

それは、ある名君の耳にも届くのでした。

 

鎖国か? 開国か? そんな二元論では駄目だ!

嘉永2年(1849年)、福井藩士・三寺三作は、横井の元で学問を習いました。

彼が横井小楠を絶賛したことにより、その名声は福井藩にも伝わります。

折しも当時の福井藩主は、高潔な名君・松平春嶽(松平慶永)です。

藩政を立て直すため春嶽は、橋本左内ら優秀な人材を身分に関係なく登用しておりました。

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福井藩の求めに応じて嘉永5年(1852年)、横井は『学校問答書』を、翌嘉永6年(1853年)には『文武一途之説』を書いて送りました。

そこには、こう記されておりました。

「相手の強弱ではなく、要求の当否で応対を決めるべきです」

外国船が来港する中、横井の論旨はスッキリとしていて、かつ正論でもありました。

外国人だから野蛮と決めつけずに、相手が礼儀正しいか、道理にかなっているかを判断、要求を受け入れるか決めるべきであり、鎖国か開国かという二元論ではならない。

そう説いているのです。

「異人はぶった切る!」

出身地、思想、そういったものを問わず、日本人の大半がそういきり立っていた時代。

ここまで冷静かつ儒教的な理想像を追及していた人物は、横井ぐらいのものでしょう。

その先進性において、この時点で彼に比肩し得たのは、佐久間象山クラスでないと無理だと思われます。

安政元年(1854年)、横井は兄の死によって家を継ぎましたが、肥後藩では彼を持て余していました。

代わりに救いの手を伸ばしたのが、松平春嶽です。

安政5年(1858年)、横井の思想に心服していた春嶽は、賓客であり師匠であるとして、横井を招いたのでした。

横井は早速、藩政改革に取り組みます。

絹・生糸の増産に取り組み、それを藩が長崎で販売。利益を農民に還元するという富国策は、絶大な効果と利益をあげました。

仁政を求める春嶽にとって、まさしく横井こそ、求め続けた人材であったのです。

横井は、その成果を『国是三論』にまとめています。

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