藤田小四郎

筑波山神社の参道入口のそばにある藤田小四郎像/wikipediaより引用

幕末・維新

水戸藩・東湖の息子 藤田小四郎が筑波山で挙兵する!結果はムゴすぎる斬首刑へ

大河ドラマ『青天を衝け』では、徳川斉昭の信頼を集める人物として藤田東湖が出てきます。

しかし、地震で圧死。

遺骸にすがって叫ぶ斉昭の姿が印象的でしたが、そこには父の死を悼む子・藤田小四郎の姿もありました。

後に、渋沢栄一と出会った小四郎は、栄一から励まされ、父を超えると誓います。

果たして「超える」とは何を意味するのか。

史実で一体どんな人生を歩んだのか。

元治元年(1864年)3月27日は小四郎が筑波山で【天狗党の乱】を蜂起させた運命の日。

その生涯を見てみましょう。

 


藤田小四郎 苦難の藤田家に生誕

小四郎はその名前から推察できるように、長男ではありません。

藤田家の構成はこうなります。

妻:里子(郡奉行山口頼母正徳の長女)

長男:小野太郎(早世)

長女:徳

次男:建次郎(健・すすむ)

三男:大三郎(任・あつし)

双子の二女&三女:孝と悌(悌は早世)

四女:功

五女:清

妾:土岐さき

四男:小四郎(信・まこと)

小四郎の母さきは妾。

にもかかわらず、正妻を立てぬ振る舞いをしたことから、暇を出されています。

そしてその子である藤田小四郎は異母兄・大三郎と同じ天保13年(1842年)生まれ。

小四郎がまだ幼い弘化元年(1844年)、父の東湖は斉昭の謹慎という政変に巻き込まれ、家族と離れて江戸小石川藩邸にて一人、蟄居を命じられました。

幼い息子二人の3歳になる祝いは、離れた蟄居先から贈るしかなかったのです。

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藤田家には苦難の日々が続きます。

東湖は持病に悩まされ続け、不遇の日々。俸禄も減らされ、一家は貧困に耐える日々が続きます。

東湖の性格は、主君である斉昭と似ているところがありました。

思い込みが激しく、自信に満ち溢れ、自分の正義感を貫き、厳しい言葉で相手を批判する。

一方で落ち込みやすく、気が塞ぎやすい。

そうした性格ゆえに対立し、プライドを傷つけられ、彼を憎む者も少なくなかったのです。

 


父・藤田東湖の死

藤田東湖の最期は、母を庇ったことによる圧死です。

その死を辿ってみますと……。

それは、蒸し暑い日のことでした。当時は頻発する地震もあってか、こう囁いていたそうです。

「なんだか嫌な天気だ。大きな揺れがなければよいが」

東湖も気分は優れなかったものの、出仕せねばならぬと、少し酒を飲み仮眠をとっていました。

そこへ推定M6.9の大地震が発生。いわゆる安政の大地震(安政江戸地震)です。

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ガバッと起き上がった東湖は、我が子5人を含めた家族を避難させました。しかし老母が大切なものがあると家の中に引き返しまうのです。

「お母様、危ない!」

そう言うが早いが東湖も家の中へ。するとまた突き上げるような揺れが襲い、彼の背中に家屋の梁(はり)が直撃しました。

寸前に母の体を前に押しやり、庇った東湖はそのまま圧死。老婆は肩の打撲で済みました。

『青天を衝け』では斉昭が遺骸を抱きしめて慟哭していましたが、記録には残されていません。あくまでフィクションでしょう。

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ただし、斉昭の気持ちはわかります。

「表誠之碑」

東湖の没後一周忌に、そう刻んだ碑を作らせたのです。

西郷隆盛橋本左内横井小楠らがその死を悼んだ書状が残されており、福井藩主・松平春嶽はこう振り返っています。

「斉昭公の失言が増え、不都合が生じ、幕府から処罰を受けるようになったことは、思えば両田(藤田東湖と家老・戸田銀次郎)を失ってからが顕著であった……」

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東湖の死は、水戸藩の運命を変えました。

そしてその最大の影響を受けた人物こそが、小四郎といえるのです。

父を失った小四郎は弘道館館長・原市之進に師事することとなりました。原は東湖の従弟にあたり、会沢正志斎のもとで学びました。

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