月性

月性像

幕末・維新

幕末の武闘派僧侶・月性とは?松陰とも親交があり海防僧と呼ばれた

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妙円寺境内に私塾「清狂草堂」を開設

大阪に着いた月性は長光寺にいた叔父の龍護を訪ねました。

この叔父は学問だけでなく、詩文や絵画にも優れていたため、多くの文化人と交流していました。

叔父の紹介で篠崎小竹の梅花社にて学ぶこととなります。

そして同時期に高名な僧や学者などと幅広い交友関係を築きました。

津藩の重役で、頼山陽と並ぶ詩の名手として知られた「斎藤拙堂」とも意気投合したようですが、はじめて拙堂の元を訪れた月性の姿はかなりとんでもないものでした。

拙堂の言葉を借りますと、

・衣は破れ放題

・頭はハリネズミさながら

・髪の毛は伸ばし放題でまるで越後の金掘り人足

とまぁ、ひどい有様だったようで。

旅の途中で宿を借りるにも一苦労だったそうですが、本人はめげていない様子だったようです。

32歳で大阪から故郷に帰った月性は嘉永元年(1848年)、妙円寺境内に私塾「清狂草堂」を開設。

現在、見学可能な塾舎(復元)は、四畳半と六畳の二間に濡れ縁のついた建物になっています。

清狂草堂

月性はこの私塾で尊皇攘夷として「海防」の必要性を説きました。

その学徳を慕って遠方からも入塾者がおり、学んだ塾生は約60名と言われ、中には奇兵隊の総監となった赤禰武人(あかねたけと)

赤禰武人/wikipediaより引用

戊辰戦争で奥羽鎮撫(ちんぶ)総督府参謀となった世良修蔵などがいます。

 

当初は松陰が倒幕論を諌めていた!?

36歳になった月性は叔父の後を継いで十世の住職となり、叔父の娘・梅野、つまり自身の従姉妹と結婚しました。

新婚早々、妻の不倫騒動もありましたが結婚から5年後に女子が生まれております。

月性の叔父2人が萩で住職をしていた関係で、萩に友人が多くおり、吉田松陰の兄、杉梅太郎とも親しい関係にありました。月性が萩城下に行く際、杉家に宿泊することもあったようです。

松蔭よりも月性は13歳年上にあたります。

当初、直接の面識は無かったものの、松蔭が兄を通じて月性のことをよく聞いていたようで。

松蔭が野山獄中から月性に宛てた手紙には、

『十年前からその名前は承知しているが会う機会が無かった』

と前置きして、月性の建白書草稿(封事草稿)に書かれた過激な倒幕論に対して公武合体論的立場から諫める内容が記されております。

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その後、松蔭は、尊皇倒幕論者と転換しており、月性との親交もその一因と考えられます。

松蔭と月性の交流は生涯続き、松蔭は時折、月性を萩に招いて松下村塾で講演をさせ、月性もまた、松蔭の才能を認めて弟子を松下村塾で学ばせました。

久坂玄端の兄・玄機とも親交がありました。

玄機が亡くなった後、久坂玄端に松蔭の元で学ぶように勧めたのも月性なのです。

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ということは、大河ドラマ『花燃ゆ』は月性の存在なくして成立しなかったかもしれません。花燃ゆ9話には月性が松蔭に宛てた手紙がチラリ……。

ちなみに月性が松蔭の妹・文の結婚相手として推したのは玄端ではなく桂小五郎だったようですけどね。

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