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【フェートン号事件】
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フェートン号事件に発展
困ったドゥーフと長崎の役人は、とにかく無事に人質を返してもらおう、と考えを巡らせます。
そこで長崎奉行・松平康英が九州の雄藩に助けを求めると、応援が来る前にイギリス船から新たな要求が届きました。
「人質を一人返すから、薪・水・食料をよこせ。でないと長崎にある日本の船を焼き払うぞ」
どんだけ横暴なんでしょうか。
松平康英は要求された物資を一部分だけ用意し、「残りも今用意しているから、一日だけ待ってほしい」と伝え、応援が来るまでの時間稼ぎを試みます。
物資を届けた際にもう一人の人質も解放されていたため、ある程度余裕を持てたのでしょう。
翌日、助けを求められた藩のうち、一番近かった大村藩(現・長崎県大村市)からの増援が到着しました。
大村藩主・大村純昌は、康英と相談してイギリス船焼き討ちを計画しましたが、その時点で既にイギリス船は出港してしまっていました。
この一件を、イギリス船の名をとって「フェートン号事件」と呼んでいます。
母国がない状態で追い出されたら野垂れ死んでしまう
結果として長崎の町も船も無事に済んだわけですが……。
あわや交戦というときに兵が足りなかったことで、長崎奉行の中には切腹した人もいました。
それだけでなく警備当番だった佐賀藩の藩士や藩主・鍋島斉直も咎を受けています。
こうなるとドゥーフも何らかの責任をとってしかるべきですが、幸か不幸か本国がない状態だったのでそうはなりませんでした。
代わりに(?)ドゥーフと長崎奉行は相談の末、入港時に正規の貿易船かどうかを確認するための信号旗を考えるなどしています。
勘合貿易の勘合符みたいなものですね。
ちなみに、多少なりともタダで補給できたということに味をしめた&その他の理由で、イギリス船はその後も度々長崎周辺にやってきています。
文政8年(1825年)に制定された【異国船打払令】は、こうした行為への対処でもありました。
程なくしてやってくる幕末期のペリーは、まるで突然やってきたかのような印象もおありかもしれませんが、実はずっと外圧はあったんですね。
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この一件と前後して、ドゥーフたちオランダ人は肩身の狭い思いをしていたようです。
出島にいたオランダ人たちからすれば、「遠い異国で仕事をしていたら、いつの間にか母国が滅びていた。な、何を言っているのか(ry」という感じだったわけですしね。
幕府としても、「滅びた国のヤツをウチに置いといてもねえ……」(※イメージです)という雰囲気が漂っていたとかなんとか。
しかし、母国がない状態で出島を追い出されたら、そのまま海の藻屑か野垂れ死には目に見えています。
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