大政奉還

『大政奉還図』作:邨田丹陵(むらたたんりょう)/wikipediaより引用

幕末・維新

慶喜と西郷の思惑激突~大政奉還が実施されても戦争が始まった理由

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【王政復古の大号令】徳川家は要らん

これで形式的には幕府が終わり、朝廷が政権を担うことになります。

新政府には、まだ実務機関がなかったので、しばらくは慶喜を含めた幕府の中心人物が引き続き政治を行わなければなりません。

慶喜はこの状態を保ち、武家議会の発足に持っていこうと考えていたようです。

しかし、それは徳川家や佐幕派を追い払いたい倒幕強硬派にとっては非常に邪魔なことでした。

彼らが作りたいのは「新しい国家」であり、旧体制の象徴ともいえる幕府の要人が政権に残ってしまうと、悪影響になると考えていたわけです。

というのは表向きの理由ですね。

要は、薩長土肥側と幕府側の権力争いでしょう。

特に西郷隆盛あたりの強硬派は、何が何でも徳川家を追い払おうと画策しました。

そのためには武力行使も辞さず――なんて言うと、内戦は避けられませんので、こうした西郷らの方針には、他ならぬ薩摩藩や公家の岩倉具視なども賛成しておりません。

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そこで出されたのが【王政復古の大号令】です。

「これからは天皇中心の政府を作るんだから、徳川家はノーセンキュー!」(超訳)と表明し、慶喜に官位と領地を返すよう求めました。

もちろん慶喜は政治に関わり続けたいのでこれを拒否。

実際、それまで政治を運営していた幕府の人間がいなくなるのも困るという問題もあります。

とはいえ慶喜も、朝敵(朝廷=天皇の敵)にもなりたくはないので、京都を離れて大坂城へ移りました。

二条城は京都のど真ん中ですが、大坂城なら籠城戦もできますし、経済の中心地でもあります。

しかし、慶喜の考えは広く通りませんでした。

夕焼けの二条城

 

鳥羽・伏見で開戦!

慶喜の行動を是としない倒幕派は、解決(物理)のための工作を始めました。

例えば西郷隆盛は、自身の息のかかった志士たちに命じて江戸で暴れ回らせます。

その報復として江戸の薩摩藩邸が襲撃されたのですが、言わば「肉を斬らせて骨を断つ」というやつでしょうか。

現代から見てもあまり綺麗な方法ではありません。

ぶっちゃけて言えばテロ行為。

結果的に新政府軍が政権を取ったため今もあまりクローズアップされませんね。

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当然ながら、当時を生きていた関係者、特に幕府サイドにとっては、怒髪天を衝く勢いでブチ切れる理由になりました。

大坂城で一連のことを聞いた佐幕派は、慶喜に新政府との戦争を持ちかけます。

慶喜も家臣たちを奮い立て、ついに武力衝突が発生!

これが【戊辰戦争】の始まりである【鳥羽・伏見の戦い】でした。

 

開陽丸で江戸へ戻らなければなぁ

新政府軍が「天皇の軍」であることを証明する「錦の御旗(錦旗)」を掲げたことで、幕府は「天皇の敵=朝敵」になってしまいます。

このとき用いられた「錦の御旗」は即席のものだったとされますが、戦争になってしまえば関係ありません。

とにかく母の吉子女王(有栖川宮織仁親王の娘)から皇族の血を受け継いでいた慶喜としては、朝敵になる事態だけは避けたかったとは言われています。

大河ドラマ『篤姫』では、慶喜役の平岳大さんがとても良い演技をしていましたね。

それまで朝廷では「慶喜の言う通り、諸侯による会議を作る形でもいいのではないか」という意見が強まっていたのですが、鳥羽・伏見の戦いによって武力による倒幕派が主流になってしまったのです。

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そして元々、倒幕派は西国大名が多かったため、西日本では武家や商人が新政府軍に協力する姿勢を見せ、新政府軍の規模は一気に拡大します。

ここで慶喜は最大のミスを犯してしまいました。

多くの兵を置き去りにして、わずかな近臣とともに開陽丸という船で江戸へ逃げ帰ってしまったのです。

しかも愛妾を連れての逃亡であり、江戸についたときは顔面蒼白で、勝海舟に自らの助命嘆願に必死だったと言いますから将軍としてはどうしようもない。

もしもここで違う動きをしていたらその後の展開は全く変わっていたでしょう。

ちなみに、佐幕派の代表格である松平容保も、慶喜に半ば無理矢理に同行させられていました。

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が、その後、養子に当主の座を譲ったり、藩士に詫びたために恨みを買わずに済んでいます。

ほんのちょっとしたことで、慶喜と容保は全く違う評価になったわけです。

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