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【尾高惇忠】
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高崎城を占拠して横浜を焼き討ちだ!
一方、渋沢栄一も天下を憂う気持ちが日に日に強まっていきます。
次第に家業を疎かにするようになり、やがて江戸へ遊学。
従兄弟の渋沢喜作と共に、攘夷への思いを高めていきました。
そして志を同じくした惇忠・栄一・喜作の三人は、
「幕府の手に負えないような一大事件を引き起こし、世の中に騒動を引き起こそう!」
と画策するに至ります。
具体的には
高崎城を占拠し、そこを拠点に横浜を焼き討ちして外国人を皆殺しにする――
そんな仰天計画を立案したのです。
彼らは若気の至りで終わらず、実際に仲間を集め、着々と蜂起の準備を始めました。
そこで横槍を入れたのが弟の長七郎です。
遊学に出ていた京都から帰郷するや否や、栄一を相手に「絶対に計画を中止しろ!!!」と強く詰め寄り、「そんな荒唐無稽な計画が成功するわけがない」と諭しました。
江戸や京都で多くの情報に触れていた長七郎と、片田舎で天下を論じていた3人では、見識の深さの次元が違ったんですね。
結果、栄一は矛を収めました。
ただしこの直後、幕府の秘密警察を恐れて、喜作と共に京都へ逃れます。
父を亡くしていた惇忠はすでに一家の大黒柱でもあり、身軽に旅立つことはできません。
そのため故郷に残り、計画の後始末をつけたといいます。
ここでちょっと気になるのが「なぜ惇忠までもが無謀な計画に加担してしまったのか?」という点でしょう。
年長者で知恵者であれば、長七郎にダメ出しされる前に気づくのでは?
そう思ってしまうところですが、もしかしたら惇忠の心中には上京できない無念さやコンプレックスがあったのかもしれません。それが冷静な判断力を鈍らせたのではないでしょうか。
栄一はパリへ 惇忠は慶喜の相談役に
横浜焼き討ちの計画中止は、惇忠ら「尾高塾」関係者たちにとって人生の転機となりました。
逃げるように故郷を去った栄一と喜作は、京都を放浪していたところで平岡円四郎に見出され、一橋家に仕えるようになります。
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そして、そのうち一橋家の当主・徳川慶喜が将軍になり、彼らも将軍の家臣へと昇格。
渋沢栄一は、水戸徳川家の跡取り・徳川昭武の【パリ万博】行きに同行して日本を離れ、渋沢喜作は国に残って大いに出世していきます。
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二人とも道を違えつつも次なるステップへと歩んでいました。
では惇忠は?
と、このころ弟の尾高長七郎が人斬りの罪で捕縛されてしまいます。
惇忠の心理までは確認できませんが、それは失望したことでしょう。
ところが、です。
捨てる神あれば拾う神あり――。
慶応2年(1866年)に惇忠は、突如、徳川慶喜から召喚され、政務全般に関する「相談役」を命じられたのでした。
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京都へ向かう最中に大政奉還が……
慶応2年(1866年)と言えば【大政奉還(1867年)】直前の大事な時期です。
一介の豪農に過ぎない彼に、なぜそんな重要ポジションが任されたのか。
前向きな理由として考えられるのは、渋沢栄一や渋沢喜作の影響でしょう。
後ろ向きな理由だとすれば、徳川慶喜が周囲にイエスマンを起きたかったか、あるいは別の候補がいなかったか、居たとしても遠回しに断られてしまったとか……。
いずれにせよ尾高惇忠にとっては不運な決断となってしまいます。
意気揚々と京都へと向かったところ、その道中に他ならぬ慶喜が【大政奉還】を表明してしまうのです。
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意表を突かれた薩長は【王政復古】を宣言して旧幕府軍と対峙し、鳥羽・伏見の戦いで大勝利を収め、両者は全面対決の様相を呈していきました。
そこで慶喜は江戸へ舞い戻り、ひたすら蟄居して無抵抗の意思を新政府軍に伝えようとします。
惇忠は、幕府の敗戦を知ってから故郷へ帰るしかなく、完全に慶喜に梯子を外されたカタチです。
しかし、幕臣すべてが新政府へ白旗を揚げたりはしませんでした。
伴門五郎らは対新政府軍を念頭に置いた武装組織の結成に乗り出し、その旗印として渋沢喜作に白羽の矢を立てたのです。
幕臣になって成長していた喜作は、組織の長に最適だと考えられたようです。
反新政府軍に加わるべきか否か。
大いに迷った喜作は、師である尾高惇忠に意見を求めると、帰ってきたのは思いも寄らない返事でした。
「やってみろ!」
「師匠がそう言うのなら!」
かくして喜作も参戦を決意。
自身を頭取とする【彰義隊】の結成が決まります。
隊の名前は惇忠が命名したものでしたが、彼自身は部隊に参加せず「相談役」の地位で組織に助言を与えました。
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