渋沢成一郎(渋沢喜作)

渋沢成一郎(渋沢喜作・右)と渋沢栄一/wikipediaより引用

幕末・維新

渋沢成一郎(喜作)は彰義隊へ!従兄弟の栄一とは進む道を違えた生涯

2024/08/29

大正元年(1912年)8月30日は渋沢成一郎(喜作)が亡くなった日です。

大河ドラマ『青天を衝け』では高良健吾さんが演じたキーマンで、渋沢栄一の従兄弟。

共に血洗島村で育ち、共に江戸へ出て、共に上洛するという、若いエネルギーに溢れた二人ですが、その先は袂を分かち、別の人生を歩んでいきました。

では成一郎が歩んだ道とは一体どんな世界だったのか?

渋沢成一郎の本人画像

渋沢栄一の従兄弟・渋沢成一郎の肖像/wikipediaより引用

史実の生涯を振り返ってみましょう。

 


渋沢成一郎(喜作)は栄一の2才上のイトコ

渋沢成一郎(喜作)は天保9年(1838年)、武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市)で生まれました。

父は渋沢長兵衛という人物で、渋沢栄一の従兄弟にあたります。

渋沢家は血洗島村内に多数の分家を構えていたため、そこら中に親戚がいたんですね。

栄一が天保11年(1840年)の生まれで歳も近いことから、二人は幼い頃から親しい間柄でした。

尾高惇忠の私塾にも二人して通い、「漢学の勉強に関しては、私のほうが多少上手でした」と栄一は語っています。

尾高惇忠の本人画像

渋沢成一郎や栄一の師であった尾高惇忠/wikipediaより引用

同時に栄一は、二人の性格的な違いをこう分析してもいます。

「私は一歩一歩着実に進んでいく堅実な性格だったが、成一郎は一足飛びに志を果たそうという短気なところがあった。その上で人を侮るようなところもあり、私でさえその対象になるんではないかと思ったこともある」

大河ドラマ『青天を衝け』でも、どちらかというと成一郎の方が浮ついた印象はありますね。

とはいえ、同じ師に学び、同じ環境で育った二人。

黒船の来航によってもたらされた混乱の中で、ともに尊王攘夷を志したのはドラマと同じです。

成一郎(喜作)・栄一・さらに師の惇忠は三人で密議を重ね

「高崎城を乗っ取り、そこから横浜へ進軍して外国人を片っ端から斬り殺す」

という襲撃作戦を企画しました。

高崎城の石垣

現在の高崎城/wikipediaより引用

と、これが江戸から故郷へ帰ってきた惇忠の弟・尾高長七郎の猛反対に遭い、計画は取り止め。

しかし彼らは兵力・軍備集めをほぼ完了し、後は決行!寸前まで進んでいたので、計画を知る人物たちが多数いる危険な状態に陥ってしまいました。

もしも誰かが幕府に密告するか、あるいは幕府の取締役に見つかれば死刑は確定。

栄一は成一郎に声をかけ、二人で「伊勢参りのついでに京へ上ります」と言い残し、京都に潜伏することを決めました。

 


倒幕とは真逆の行動 一橋家に仕える

やむを得ず京都に逃れた二人。

しかし、ただ危機を回避するための逃亡であり、具体的なプランなどありません。

栄一は父から一時金を受け取っていたものの、有力な志士との出会いや遊びに費やしてしまい、さらにはこのころ長七郎が人斬りの罪で捕縛されてしまいます。

長七郎が捕まったのは他人事ではありませんでした。

彼らの攘夷強行計画を知られてしまうかもしれません。

このままではお縄になってしまう。どうしたものか……と悩む彼らに手を差し伸べたのは、当時一橋家に仕えていた家臣・平岡円四郎でした。

『青天を衝け』では堤真一さんが演じられていましたね。

ドラマでもそのように、若い書生と語り合うのが好きだった円四郎は、以前から栄一らと親交がありました。

京都へ上る際も、円四郎との関係から「一橋家の家臣」を詐称したほど。

円四郎は二人を呼び出すと「計画」についてそれとなく尋ねます。

案の定、長七郎へ綴った手紙が幕府サイドに見つかり、攘夷を計画しているなどの情報が円四郎にも届けられたのです。

栄一は円四郎を信頼していたため

「攘夷を実行しようと思ったことはあります。が、実際に事を起こして人斬りにおよんだことはありません」

と素直に釈明。

円四郎は「もう君たちには行き場がないだろうから、いっそ私のように一橋家に仕えてみるというのはどうか」と驚きの提案をするのでした。

浪人という現状を考えれば願ってもない話。

武士姿の渋沢栄一

武士姿の渋沢栄一/wikipediaより引用

しかし、それまで倒幕の心を抱いてきた二人がいきなり幕臣になるというのは、あまりにも正反対であり、彼らも判断つきかねます。

彼らは二人で相談しました。

成一郎(喜作)「これまで幕府をつぶすために走り回ってきたのに、幕府と深いかかわりがある一橋家になど仕えられるか!『食べるために信念を曲げた』と言われるし、何より自分が恥ずかしい!」

栄一「もちろん一理ある。ただ、このまま野垂れ死にするくらいなら『食べるために信念を曲げた』と思われても、後で見返せばいいじゃないか。試しに仕えてはみないか?」

成「いや、何としてでも江戸に帰る!帰って牢獄から知り合いを助け出さなければ」

栄「牢から人を助けるにしたって、ただの浪人でいるよりも一橋家の家臣になるほうが救える確率も上がるだろう。悪い選択ではないんじゃないか?」

成「なるほど。それは確かに」

かくして二人は仕官を決意したのです。『青天を衝け』とまるで同じ展開ですね。

 

パリへ旅立つ栄一と別れ、彰義隊の頭取に

一橋家の当主は、後に「最後の将軍」になる一橋慶喜でした。

彼らは慶喜の下で、着々と身分を向上。

しかし、幕府の14代将軍・徳川家茂が亡くなり、慶喜が次期将軍となったことで転機が起きます。

「こんな時代に将軍なんて、単なる罰ゲームじゃないか」と栄一は深く失望し、政務へのやる気を喪失。程なくしてパリへ旅立ちます。

このころ慶喜の弟・徳川昭武をトップとするパリ万博への公使団が結成され、そこに誘われたのです。

ベルギーで撮影された徳川昭武

徳川昭武(左から三番目)らの遣欧使節団・ベルギーで撮影/wikipediaより引用

一方、成一郎は、公使団に加わることなく、将軍・慶喜の幕臣となりました。

彼は慶喜から厚い信任を受けており、新参の家臣ながら奥祐筆(機密文書を預かる重要な職)にまで出世。世が世なら、生涯安泰になるほどの立場に登り詰めます。

しかし、現実はそう甘くないのが、日々、政情の変わる幕末。

慶応3年(1867年)に慶喜が大政奉還を表明したことで幕府は消滅し、翌年に勃発した鳥羽・伏見の戦いに敗れたことで、幕府軍は「朝敵」にまで成り下がってしまったのです。

慶喜は江戸城へ戻り、新政府軍への恭順を表明するのですが……。

慶喜恭順の知らせを受けた成一郎ら幕臣たちは、多大なるショックを受けました。

そりゃそうでしょう。これから薩長が攻めてくるであろう場面で、大将はいの一番に船で逃げ、その後は江戸の寺で引きこもっているというのです。

残された幕臣らは、新政府軍との対決に向け激論を交わします。

しかし、どうにもなりません。他ならぬ慶喜が、新政府軍への抵抗を禁じ、薩長へ恭順の意を示すよう命じたのです。

主君の汚名を晴らすには新政府軍を討つしかないが、それをすれば命令違反を犯すことになる。

彼らはジレンマに苦しみ、抗戦派の本多敏三郎・伴門五郎らはひそかに同志たちと会合を繰り返し、第三回目の会合に招待されたのが成一郎と天野八郎という人物でした。

成一郎は参加を迷っていたようですが、尾高惇忠の強い勧めもあり、加入を決意します。

彼らの会合は参加者が伸びず、慶喜の側近であった成一郎を招くことで機運の高まりを狙ったようです。

実際、その次の集まりでは参加者が大幅に増加。

第四回会合の結果、頭取(隊長)を成一郎、副頭取を天野とする反乱軍「彰義隊」が誕生したのでした。

 


頭取の成一郎が彰義隊から追い出され

彰義隊の面々は江戸決戦に向けて着々とメンバーを増やしていきました。

ところが、です。

直前になって西郷隆盛と勝海舟(山岡鉄舟)の交渉が開かれ、江戸城の総攻撃は延期。

西郷隆盛(左)と山岡鉄舟の肖像

西郷隆盛(左)と山岡鉄舟/wikipediaより引用

新政府軍は「幕府方の完全武装解除」を求めますが、これがなかなか履行されず、予断を許さない状況へと陥ってしまいます。

その間にも彰義隊はどんどん規模を拡大。

気がつけば、上野・寛永寺を本拠地として、新政府軍の警戒対象となるまでに成長してしまうのでした。

新政府軍も焦りがあったのでしょう。

彰義隊のことはさておき、ともかく江戸城へ入城。

その後も新政府軍は江戸にいた彰義隊ら残存勢力たちの武装解除を求めますが、その途中、ついに戦闘が始まってしまいました。

新政府軍と幕府軍は江戸の北方で戦闘を本格化させ、彰義隊のところへも戦火は拡大しつつあるように見えました。

しかし、そこで思わぬ敵が現れます。

内紛です。

彰義隊は頭取の成一郎派と副頭取の天野派に分かれ、内部分裂を起こしかけていました。

そこで慶喜は、頭取の成一郎に対し、隊を統制するように指示。

成一郎もそれに応えようとしますが、すでに千人を超えるメンバーに膨れ上がっていた彰義隊は、もはや頭取の指示に従わないません。

結局、成一郎はドロ沼の権力争いに疲れ、隊からの離脱を決意せざるを得なくなります。

が、結果的にはそれが正解でした。

間もなくして彰義隊が壊滅させられたのです。

上野戦争(彰義隊)を描いた歌川芳盛の浮世絵

上野戦争(画:歌川芳盛 )/wikipediaより引用

 

最後まで新政府軍と戦ったが完敗

離脱後の成一郎一派は「振武軍」を名乗り、独自の軍事行動を開始します。

ネットワークを通じて金策に励み、田無を中心に東京北部・埼玉南部から多額の資金を獲得。

彼らは江戸から離れた箱根ヶ崎村を本拠とし、彰義隊が立ち上がれば別動隊として戦に加わる方針でした。実際、開戦の一報が入ると速やかに出陣しています。

ところが不幸にも、彰義隊は一日足らずで潰滅。

振武軍を含め、行き場を失った旧幕臣も多かったといいます。

上野戦争の跡地

戦いに敗れて焼き尽くされた上野戦争の跡地/wikipediaより引用

成一郎本人は

「残念だが、戦いが一日で終わったために江戸が火の海にならなかったのは結果的に幸運だったと思う」

と回想しています。

その後は彰義隊の敗残兵らと合流して飯能に向かいました。

が、情報をつかんでいた新政府軍との戦闘で敗北。さらに北へ逃走し、会津の地で振武軍と彰義隊の敗残兵を合わせ、ふたたび彰義隊を結成します。

それでも事態は好転しません。

新政府軍と対峙していた【奥羽越列藩同盟】が崩壊を始め、成一郎も函館へと北上します。

ところが、ところが、です。北海道の地で彰義隊は再び分裂してしまうのでした。

旧天野派の隊員たちが反発したとも、金銭問題とも言われますが、いずれにせよ成一郎は我慢のキャパオーバーです。

もはや、やってられん!

とばかりに一人で戦場を離脱すると、結局、捕らえられて東京へと送られるのでした。

 

赦免後は大蔵省に勤務 実業家へと転身

囚われの身となった成一郎は、やがて罪を許され、パリから帰国した栄一と再会します。

栄一としては「成一郎をどうしたものか……」と悩み、まずは自身の勤務先・大蔵省に紹介しました。

浪人から一転、大蔵省勧業課の職員となった成一郎。

かなり恵まれているようにも見えますが、万事丸く収まったとは言い難いものがあります。

なぜなら栄一が「すでに出世していた私の下で働くことは不快だったはず」と成一郎の心の内を分析しているのです。

渋沢栄一の本人画像

渋沢栄一/wikipediaより引用

長く行動を共にしてきた親戚だけに、直接の上下関係というのは確かに難しいシチュエーションだったことでしょう。

とはいえ、このままでは両者の差はますます広がるばかり。

成一郎にも出世をしてもらうべく、栄一は「蚕産業を調べるという名目でイタリアに留学してみるのはどうか」と勧めます。

養蚕業であれば成一郎も門外漢ではなく、十分に素養がありました。

そこで明治5年(1872年)、満を持して留学へと旅立つのですが……またしても成一郎の未来に暗雲が立ち込めます。

留学中に栄一が大蔵省を退職してしまったのです。

結局、イタリアから帰国した成一郎は「知り合いもいない官界では面白くない」として大蔵省を退職。

再び栄一の推薦で、実業家・古河市兵衛率いる「小野組」に勤めます。

が、なんとなんと、今度は明治7年(1874年)、金融政策の急変により、小野組は倒産に追い込まれてしまうのです。

 

米相場や為替に敗れて借金30億円

もういいよ。聞いてて辛い。

そんな風に耳を塞ぎたくなるような成一郎のリクルート人生も、ここでいったん終了。

次は転職ではなく起業へと向かいました。

「今からやるなら蚕と米がいい。蚕は外国の需要もあるし、米は日本中の誰もが食べるからだ」

成一郎の挑戦に対し、栄一も喜んでアイデアを進言。

程なくして横浜に「生糸問屋渋沢商店」が設立されます。

しかしながら、栄一が語るように成一郎は「投機的」な男でした。

米と蚕糸の商売だけに飽き足らず、米相場(今でいう先物取引)に手を出し、大損失を招いてしまうのです。

この借金については栄一が尻拭いをし「今後は、絶対に米相場には手を出さず、現物の委託販売に留め、原則として生糸のみを扱うこと!」を念押ししました。

「わかった!」

という二つ返事でバクチを止められる人物であれば、最初から米相場に手を出したりしません。

3~4年はおとなしくしていましたが、明治18年(1885年)に今度は弗相場(ドル相場:今でいえばFX)に手を出してしまうのです。

彼曰く「始めるとこれがなかなか面白く、簡単にはやめられない」ということですが……そりゃダメでしょ!

栄一も相当呆れていたようで、案の定、成一郎は大失敗します。

「米相場のように生易しい失敗ではなかった」ようで(栄一談)、明治20年(1887年)時点でなんと70万円、今の価値で30億円ほどの巨額負債を作ってしまうのです。

 

隠居を条件に借金を建て替え

借金については栄一が保証人になっているわけでもありません。

支払いできなければ、単に銀行の損害となるだけ。

さすがに栄一としても「無視してもよかった」ようですが、そうは言っても「幼少の頃より生死をともにした間柄であり、むざむざ商売をつぶすのは惜しい」と考えます。

そこで次のような条件を出し、成一郎の借金を建て替えてやりました。

・成一郎は隠居する

・息子の渋沢作太郎に店を譲る

・家業には口出しせず、手出しもしない

建て替えた30億円もの大金は、成一郎の息子・作太郎が返済することになっていました。

が、誰より驚いたのは父の成一郎だったかもしれません。

己の息子には紛れもなく商才があり、店はみるみる繁盛。20年計画の借金返済が、その約半分12年で完了してしまったのです。

残念ながら作太郎は若くして亡くなってしまいましたが、跡を継いだ成一郎の三男・義一も優秀な経営者でした。

店は変わらず繁盛し、成一郎もそれを見て大層喜んだと語ります。

隠居してからも若干の「おイタ」はあったようですが、大したことではなかったので栄一がその都度補填してやりました。

なかなか懲りない人ですね。

そして息子たちの活躍を見守った成一郎は、大正元年(1912年)8月30日に74歳でその生涯を終えました。

イトコの栄一や息子たちとは異なり、まったく商才のなかった成一郎。

栄一も「はた迷惑な男である」と言いつつ、困ったときには常に手を差し伸べていて、人間的には信頼していたのでしょう。

商才を発揮した息子たちとは親子のように親密な関係を築いていたともいいます。

確かに商売の才能はありませんでしたが、もしかすると教育者には向いていたのかもしれませんね。

 

追記(2025年8月29日)

渋沢成一郎に関連する画像を本文中に9枚追加しました。

なお、渋沢栄一や渋沢成一郎と縁が深い飯能市公式サイトでは「飯能戦争」に関する史料が確認できます。

ドラマの中で渋沢平九郎が自害を遂げた戦争ですね。

飯能市の公式サイトでは振武軍の記念碑などもご確認できます。

▼更新履歴
・2025年8月29日:命日にあわせ肖像などの画像を追加

・2021年5月24日:記事公開

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参考文献

  • 公益財団法人渋沢栄一記念財団(編)『渋沢栄一を知る事典』(渋沢栄一記念財団, 2010年, ISBN: 9784490108248)
    出版社: 渋沢栄一記念財団
    Amazon: 商品ページ
  • 渋沢栄一/守屋淳(訳・編)『現代語訳 渋沢栄一自伝:「論語と算盤」を道標として』(ちくま新書, 筑摩書房, 2010年, ISBN: 978-4480065353)
    出版社: 筑摩書房
    Amazon: 商品ページ
  • 土屋喬雄『渋沢栄一』(人物叢書, 吉川弘文館, 新装版2009年, ISBN: 978-4642051590)
    出版社: 吉川弘文館
    Amazon: 商品ページ
  • 鹿島茂『渋沢栄一 上 算盤篇』(文春文庫, 文藝春秋, 2020年, ISBN: 978-4167590079)
    出版社: 文藝春秋
    Amazon: 商品ページ
  • 安藤優一郎『江戸のいちばん長い日:彰義隊始末記』(文春新書, 文藝春秋, 2018年, ISBN: 978-4166611669)
    出版社: 文藝春秋 |
    Amazon: 商品ページ
  • 渋沢栄一記念財団「実験論語処世談 22巻 4.渋沢喜作との関係」
    公式ページ (最終閲覧日: 2025年8月28日)

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とーじん(齊藤颯人)

上智大学文学部史学科卒。 在学中から歴史ライターおよびブログ運営者として活動し、歴史エンタメ系ブログ「とーじん日記」や古典文学専門サイト「古典のいぶき」を運営している。 各メディアで記事執筆を行うほか、映画・アニメなどエンタメ分野の歴史分析も手がける。専門は日本近現代史だが、歴史学全般に幅広い関心を持つ。 2023年にはサンクチュアリ出版より『胸アツ戦略図鑑 逆転の戦いから学ぶビジネス教養』を刊行。元Workship MAGAZINE 3代目編集長。 ◆2019年10月15日放送のTBS『クイズ!オンリー1 戦国武将』に出演(※優勝はれきしクン) ◆国立国会図書館データ https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/032655935

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