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【千葉栄次郎】
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あの山岡鉄舟を軽く翻弄
当時の鉄舟は「鬼鉄」として知られ、血気盛んな青年でした。
彼は、千葉栄次郎と同門の井上八郎から北辰一刀流を習い、なかなかの腕前を誇っていたようですが、栄次郎の前では歯が立ちません。
そこで一計を案じます。
仲間を20人ほど集めて代わる代わる栄次郎に挑ませ、疲れきったところで一本だけでも取ろうとしたのです。
武士の風上にも置けない、なんとも卑怯な戦法と思われるでしょうか。
確かに当時の武士は、今を生きる我々よりもはるかに「メンツ」を重視していました。
裏を返せば『そうでもしないと栄次郎には決して勝てない』ほどの圧倒的存在だったのでしょう。
さすがに20人が相手では天才剣士でも勝ち目がない。鉄舟もそう考えたはずですが、しかし……。
栄次郎の剣術は常人の思惑をはるかに上回っていました。
20人ことごとく竹刀で打ち破ったかと思ったら、戦いが終わった後も息一つ切らさず、飄々としていたのです。
しかも、です。
諦めきれない鉄舟がもう一度栄次郎に飛び掛かろうとしたとき、栄次郎の竹刀を確認すると、中ほどからポッキリ折れていたというから驚き。
20人の武士を相手にするうちに竹刀の方が先に音を上げてしまったのかもしれません。
いずれにせよ栄次郎は折れた竹刀で鉄舟を翻弄しており、さすがにここまでされたらお手上げというほかなく、鉄舟はただただ栄次郎の強さに関心したといいます。
水戸藩で「まやかしの剣士」と揶揄されたのはなぜ?
かくして江戸中で評判の剣士となった千葉栄次郎。
嘉永6年(1853年)になると、その腕前が評価され、水戸藩江戸定詰(出張所のようなイメージ)の剣術指南役に抜擢されました。
江戸で指導するだけでなく、水戸へ出向くこともあったといいます。
この頃にはすでに一人前の剣士として認められており、偉大な父・千葉周作から独立、水戸でも父の代わりに稽古をつけるほどだったのです。
しかし、その類稀な剣術が、かえって水戸藩士の反感を買ったというエピソードが残されています。
彼は水戸の弘道館道場で稽古した際、
・頭の上で竹刀をクルクル回転させる
・竹刀を相手のコカンにくぐらせる
・竹刀を頭上に放り投げ、落ちてくる竹刀で相手を攻撃する
といったアクロバティックな剣さばきを披露しました。
しかし前述の通り、当時の武士たちはとにかくプライドが高いもの。
彼の振る舞いは「自分たちをバカにして無礼だ!」と捉えられてしまい、激怒した水戸藩士らに謝罪することでなんとか場を収めたといいます。
まぁ、真面目に戦っているところで妙な技で翻弄されれば、誰でも腹が立ちますよね。
私ですら、さすがに『バカにしすぎでは?』と思ってしまいましたが、真相は違うものでした。
栄次郎は、ふざけたように見せかけることであえて隙を作りだし、油断した相手を打ち倒す術を教えるつもりだったようです。
「私が隙を見せている間に攻撃できないとは、まだまだ修行が足りない」
栄次郎にしてみればそういうことだったのでしょう。
しかし彼はそれをうまく説明する言葉を持ち合わせていなかったようで……自身は剣術の天才でも、指導者にはあまり向いていなかったのかもしれません。
実際、栄次郎の稽古は「フザけている」と思われてしまい、一部には「あいつの剣には実がない。だからまやかしの剣だ」と揶揄する声もありました。
まぁ、単なる嫉妬にも見えますが……。
個人的には『鬼滅の刃』における最強剣士・継国縁壱を思い出してしまいました。
剣技の次元が違いすぎて、常人からは飄々淡白に見えてしまう現象です。
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