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【千葉栄次郎】
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九州の藩士にも知られていたその腕前
現代では、あまり有名とは言えない千葉栄次郎。
幕末当時は全国区で名が知られていたことを伺わせる話があります。
九州の久留米藩に、武藤為吉という優秀な剣士がいました。
その武藤が栄次郎との試合に挑み、こんな言葉を残しているのです。
「初対面の初試合、日本一になれると覚悟を決めて勝負に臨んだ。熱戦を繰り広げることはできたが、運悪く負けてしまった」
運悪く……とは、これまた負け惜しみっぽい雰囲気が見てとれますが、注目したいのは「日本一になれる」という節です。
江戸ではなく久留米藩士の武藤が「日本一になれる」と表現したのは、つまり当時の栄次郎が日本一強いという評判が全国区だったからでしょう。
この時代は、黒船来航によって日本中が危機感を抱いていた動乱期。
戦から離れていた武士のみならず農民に至るまでの階層でも剣術修得に躍起になっていて、栄次郎のいた千葉道場は、坂本龍馬をはじめとした全国の志士たちが一堂に会する場でもありました。
そこで圧倒的な腕前だったのですから、日本一と評されるのもあながち誇張ではない気がします。
むろん、こうした道場はサロン的な一面があり、超実践的な殺人剣である天然理心流や薩摩のジゲン流と比べたら、また評価も変わってくるかもしれませんが……。
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無敵の剣も病には勝てず
圧倒的剣技で天才の名をほしいままにした千葉栄次郎。
残念ながら彼が幕末維新の時代に活躍することはありませんでした。
文久2年(1862年)1月、無敵の剣士は病によって31歳の生涯を閉じてしまったからです。
遺伝的なものもあったのでしょうか。
父・千葉周作の子どもたち、つまり栄次郎の兄弟たちは短命な人物ばかりで、安政2年(1855年)には長男が、文久元年(1861年)には四男が亡くなっています。
幕末ファンとしては、どうしても『栄次郎が生きていたらどう活動したのか?』を考えてしまうかもしれません。
しかし、個人的には厳しかったような気もします。
明治時代に入れば政治・外交・経済などの実務が重視される一方、剣術は冷遇され、栄次郎自身の口下手さ等を考えると、その力を発揮する場面が少ないように感じるからです。
「最強の剣士」として北辰一刀流全盛期に亡くなったのは、不謹慎ながら、ある意味で幸運だったのかもしれません。
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文:とーじん
【参考文献】
朝日新聞社『朝日日本歴史人物事典』(→amazon)
清水昇『幕末維新剣客列伝』(→amazon)
北辰一刀流 玄武館「北辰一刀流 玄武館の沿革」(→link)