そんな台詞を聞けば、幕末時代劇好きの方ならすぐにピンと来られるでしょう。
新選組の登場シーンであり、恐ろしい剣技を持つ彼らは狼のように恐れられていました。
江戸期の比較的平和な時代を経て、スポーツと化していた当時の武士剣術。
これに対し、荒々しくパワー溢れる殺人剣を継承していたのが、西では薩摩の示現流や薬丸自顕流であり、東の頂点が新選組の天然理心流だったのです。
※以下は薩摩ジゲン流と天然理心流の考察記事となります
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相手を殺傷することを厭わない剣術をマスターしていた新選組。
その中でもトップ3となれば、実質的に幕末の最強剣士候補に入るでしょう。
ではその3名とは?
今回は、そんな狼たちの中でも僅差で一位ではないか? と評価された……大正4年(1915年)1月5日が命日である永倉新八にスポットを当てたいと思います。
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松前藩士なれど生粋の江戸っ子でぇ!
永倉新八のことを愛した作家に、粋な江戸情緒を大切にした池波正太郎がいます。
池波が、永倉を気に入った理由として、
「三味線堀の水で産湯を使った、生粋の江戸っ子でえ!」
としておりました。
永倉は松前藩士の子とはいえ、生まれも育ちも江戸。気質も江戸っ子らしさに溢れていたのです。
そんな永倉新八が誕生したのは、天保10年(1839年)のこと。
父は松前藩江戸定府取次役で150石の長倉勘次で、幼少期は栄治と呼ばれていました。
松前藩は蝦夷地に領地を持ち、アイヌとの交易で潤った、幕藩体制でも例外的な藩です。
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ただし、江戸定府取次役の息子では、蝦夷地を踏むような経験はありません。
後に彼の盟友・土方歳三が松前藩と戦い、撃破することになりますが、それはまだまだ先のお話。
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長倉夫婦は、やっと生まれた待望の男児を、蝶よ花よと甘やかして育てます。
読み書きを教えようとしてもすぐに飽きてしまい、親の目にも余るほど荒っぽいことばかりをしているやんちゃな息子。
そこで父は、我が子に竹刀を持たせることにしました。
武道ならば、武士の治めるべき道であります。修行に励むことで、有り余るエネルギーを昇華させることができるのではないか。
こうして永倉新八は弘化3年(1846年)、岡田利章(3代目岡田十松)の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門しました。
現在でいうところの小学校低学年でした。
剣術を極めたいから脱藩する!
エネルギーに満ちあふれた永倉新八は、あっという間に頭角を現しました。
師匠も目を細め「あれこそ我が弟子!」と自慢するほどの上達ぶりです。
入門4年目に師・岡田利章が亡くなった以後は、岡田助右衛門に教わります。
そして15歳で切紙(免許状の一つで初段)。入門十年目の安政3年(1856年)には、18歳で本目録(同じく免許状の一つ)を獲得しました。
堂々たる天才剣士っぷりです。
この年、永倉は元服を果たしました。
武士の本分たる剣術で、天才的な腕の冴え渡りを見せる永倉に対し、両親もさぞかし鼻が高かったことでしょう。
ただ、それもある程度セーブができていればのお話でして。
長男として生まれた永倉新八は、二男三男とは違って剣術修行を終え、藩士の後継者としての教育に臨まねばなりません。
同輩の二男三男が剣術道場に向かう中、永倉には途中でSTOPがかかります。
しかし、うずき出した腕は、もはや止まらない。
「こうなったら、脱藩するしかねえ!」
元服の翌年、19の春。
永倉新八は松前藩から脱藩し、剣術修行に出てしまいました。
本来でしたら重大な犯罪ですが「武芸の修行という理由は殊勝な心がけだから」と藩は許してくれます。
両親は、さぞかしガッカリしたことでしょう。
俺より強い奴に、会いに行く
脱藩した永倉新八は、「長倉」から「永倉」と名を改め、江戸本所亀沢町の百合本昇三の道場「百合本塾」に出入りすることになりました。
ここで4年間、ひたすら修行に励みます。
ペリー来航以来、何かと騒がしい世情でしたが、永倉に政治的な関心は無く、スポーツマンとしてひたすら剣を振っておりました。
しかし22才にして、神道無念流の免許皆伝を得ると、沸々と欲求が湧いてきます。
いったい俺はドコまで強いのか!?
格闘ゲームか少年漫画のような展開ですが、ともかくそういうものなのでしょう。
「どうでえ、宇八郎さんよ。諸国を武者修行で回ってみねえか」
永倉新八は、同じく松前藩士の市川宇八郎(のちの芳賀宜道)に声を掛けてみました。
「おもしれえ。いっちょやってみようぜ」
市川も快諾し、二人は関東一円を暴れ回ります。
ドコへいっても軽々と相手を倒す永倉と市川の最強コンビに、相手は舌を巻きました。
江戸でも屈指の剣士になりつつあった永倉新八には、稽古をつけて欲しいという話が舞い込みます。
心形刀流剣術伊庭秀業(隻腕の美男剣士・伊庭八郎の父)の門人・坪内主馬にも見込まれ、道場師範代を務めることもありました。
そこで、門下生・島田魁(のちに新選組に加入)とも知り合っています。
「試衛館」の兄ちゃんたち
やがて永倉新八は「試衛館」という、天然理心流という流派の道場を知りました。
常に50人、60人と出入りする道場の主は、近藤勇という男。
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道場は、さながら梁山泊か、虎の穴か。個性豊かで血気盛んな青年たちがウロウロしていました。
若くして天才的な剣をふるう、塾頭の沖田総司。
色白の美男ながら、太刀筋鋭い土方歳三。
「魁先生」と呼ばれ、何事にも真っ直ぐな藤堂平助。
年長者で経験に恵まれた井上源三郎。
人柄が良く、温厚な山南敬助。
ここに元気のいい永倉新八が加わったわけです。彼らは酒を飲みながら、酔いが回るとこんな物騒なことを言い合いました。
「近頃、何が腹立つって、鳶鼻の異人どもだ。見かけたら斬り捨ててやろうじゃあねえか!」
道場でクダを巻く青年たちのうち、
・本物の外国人を見たことが何人いるのか
・開国の意味がわかっているのか
というのを理解していた者がどれだけいたか。かなり怪しいものです。
しかし、これが当時の雰囲気。
勝海舟、福沢諭吉、五代友厚のような例外的な人物を除けば、「異人をぶった斬ってこそ愛国!」というレベルであったのです。
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後に倒幕を目指す者にせよ。
幕府のために戦う者にせよ。
彼らの知識レベルに大差はありませんでした。
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