大河ドラマ『青天を衝け』では、主人公の渋沢栄一が「攘夷の志士になる」と喧伝されていました。
「攘夷の志士」って何だか力強い言葉ですよね。
強固な責任感と意志で“何か”を目指している感じがする。
でも、いったい何を……?
そもそも「志士」とは何なのか――そう問われたら、意外と答えにくいこの問題。
彼らがどんな階層の人物で、いかなる思想を持ち、何をした人たちなのか。
あるいは、どうすれば志士になれるのか。
明確に定義するのは意外と難しいかもしれません。
本稿では「志士の本質」に迫ってみたいと思います。
志士とは何なのか?
日本ではなく、中国と朝鮮には「士大夫(したいふ)」という言葉があります。
時代によって定義は異なり、中国の場合、北宋以降は【科挙に合格していること】が条件として定義されていました。
ひるがえって日本における「志士」の定義は、そういう試験や条件が曖昧。
漢籍では「道徳的に正しいことをする勇者」というのが意味でした。
ここに特別な意義が付け加えられてゆくのが、江戸時代です。
正義を愛する人ならば、志士を自称できる――こんな調子で定義はユルく、出身地や身分も武士とは限らない。
実は女性でも志士と呼べる人材はいて、例えば松尾多勢子(本稿末に関連記事URLあり)などもそうでしょう。

松尾多勢子/wikipediaより引用
「草莽崛起」(そうもうくっき)とは、吉田松陰が掲げた言葉です。
草の間に潜む在野の人物であれ、手に手を取ってたちあがれば大きな力になる、さあ皆、やる気を出そう! という意義があります。
ここが幕末史のややこしいところ。
新選組はじめ幕末の組織は「やる気があればどうぞ!」と曖昧に門戸を広げたがため、政治的対立が起こりやすい状態にありました。
その対立の末に血で血を洗う粛清も頻発するのです。
志士になるための諸条件
ではここで、志士になるための条件をざっと確認しておきましょう。
【条件1】ある程度教養がある
→陽明学や水戸学を学んでいればなおよし! ただし、西洋知識を持っていると攘夷の標的となりかねないリスクを伴うぞ!
【条件2】身分は?
→問わない
→ただし、活動資金の支えがあり、家族の理解も得られて、長期間留守にしても家業が潰れないことが必須。ゆえに武士と豪農が多い。
【条件3】国を思う気持ちはあるか?
【条件4】思い立ったら行動できるか?
例えば渋沢栄一の場合、上記の条件をばっちり満たしていました。
漢籍教養があり、お金持ちで、やる気がある――この手のタイプは幕末日本に割と数多くいたものです。

若き日の渋沢栄一/wikipediaより引用
しかし、実際に生き延びて、ましてやその後、社会的に成功するとなると、ほんの一握り。
誰でもなれるようで、家庭に余裕がなければできない。そんな哀しい条件もあったのですね。
もちろん行動が大事ですので、年齢構成も必然的に若くなります。
志士が生まれる時代と漢籍教養
志士はなぜ発生したのか?
実は幕末にいきなり飛び出してきたわけでもありません。
江戸時代もあれだけ統治が続くと、政治体制に変動が出始めます。
身分制度はフレキシブルとなって士農工商もユルくなり、かつ教育制度も時代がくだるにつれ高まってゆきました。
人口増、藩政改革、学習環境の整備――こうした各地での改革の結果、学問や思想に目覚める人々が増加。

皆様の出身地にも「算額」が奉納された神社はありませんか?
これらは昔の人々が和算で解いた難問を奉納したものです。このように和算や俳諧を楽しんだだけではなく、政治や思想を論じる場も生まれていった。
江戸時代の人々は考え、自分たちが生きる世はどうすればよくなるか、議論し考えたのです。
彼らは、漢籍や中国文学を通して理想を昇華させてもゆきました。
幕末の志士が漢詩を詠み、漢籍を引用するのも、こうした背景があったからなのですね。
例えば屈原(くつげん)、荊軻(けいか)、関羽、諸葛亮、文天祥(ぶんてんしょう)等々。
国を憂い、命を捧げた人々の行動に感涙し、あんな生き方をしたいと待望する、それが志士でした。
悲しいかな、漢籍教養がないと、一段下と見なされることもあり、例えば西郷隆盛は桐野利秋を愛しつつ、その欠如を嘆いていました。

西郷隆盛(左)と桐野利秋/wikipediaより引用
武士階級にあって藩校に通っていた人物ならば漢籍知識はクリアしているとみなせます。
教養があればこそ志士が生まれた――このことは重要でしょう。
例えばロシアでは、農奴階級の識字率を下げ、教養そのものに近づけないようにしていました。
貴族はフランス語を共用語とすることで身分による教養格差を促進していたのです。
啓蒙君主とされたエカチェリーナ2世であっても、フランス革命後は民を啓蒙から遠ざけようとしました。
ロシア革命前夜、革命を成し遂げるため民衆に教養と思想を伝播することこそが重要とされた背景には、そうした事情があります。
その点、日本では、草の根の思想が生えてゆく状況が整っていました。
しかし、同時に考えておきたいこともあります。
◆志士は「尊王」を掲げていても、天皇がどんなものかよくわかっていない
→あくまで象徴として崇拝していた。
◆志士は「攘夷」を掲げていても、異人がどんなものかよくわかっていない
→外国に関する知識は、むしろ江戸幕府上層部のほうが豊富だった。
結果的に倒幕を掲げた志士の勝利とはなりましたが、果たしてそれが最善の道であったかどうか。そこを考察することは重要かもしれません。
◆志士の知識には偏りがある
→これは志士だけの問題でもありません。のちに会津藩出身の山川健次郎は、藩校教育には理数系、工学系がなく、偏りがあったと回想しています。
志士には科学や工学系の知識が欠如する傾向があり、優秀な幕臣にはるかに劣っています。
小栗忠順、栗本鋤雲、榎本武揚らは洋行経験もあり、こうした知識を急速に身につけて日本近代化へ進める知識を試行錯誤しておりましたが、志士は出遅れていたのです。
志士と心即理・知行合一
国を思い、世の中を良くしようとした志士たち――それの一体何が悪いのか?
もちろん悪くありません。
幕末でなければ、志士の原型となる教養豊かな人々も無害でした。それが時代が下るにつれ変わってゆき、思想の流入も進みました。
幕末前夜、世の中を変えるため行動した先駆者がいます。
大塩平八郎です。
ご存知【大塩平八郎の乱】はすぐに鎮圧されたため、さほど印象に残らなかったかもしれません。

大塩平八郎の行軍を記した『出潮引汐奸賊聞集記(でしおひきしおかんぞくもんしゅうき)/wikipediaより引用
江戸時代初期の【由井正雪の乱】とは異なり、世を憂いた大塩はより良い政治をめざして決起しました。
その大塩が学んでいたのが陽明学です。
陽明学は「心即理」、すなわち「心こそ理である」という教えがありました。
そして「知行合一」を主張しました。
「知っていて行わないならば未だ知らないことと同じである」という意味ですね。
悪政があり、不満がある――そうわかっていながら何もしないなら、知らないことと変わらない。見逃すことは悪事に加担するようなものだ。
そう考えると大塩の行動も素晴らしいと思えます。
しかし
“思ったら即行動”
というのは、短絡的になる危険性もあります。
ゆえに体制を維持するどころか破壊するものとして、中国の明清、朝鮮王朝では危険思想の扱いであり、日本でも【寛政異学の禁】により禁止されました。
だからこそ、志士は「敢えて陽明学を学ぶ俺!」という発想につながっていきます。
ましてや非業の死を遂げた陽明学思想家なんて、もう言うことなしであり、その典型例が明末・李卓吾ですね。
彼の説く教えは危険だとして投獄され、獄中で自死を遂げたのですが、吉田松陰がこの李卓吾を熱烈に崇めました。

吉田松陰/wikipediaより引用
松下村塾生たちのエネルギー源に陽明学があり水戸学にも影響を及ぼしました。
陽明学的な言動が濃い人物としては、吉田松陰と西郷隆盛が代表格とされております。
一方で朱子学的な人物としては大久保利通がおります。
朱子学的な人物は冷徹とされ、人気が低迷する傾向を感じますが、組織を強固に形成するという点では役立つと思えます。
脱藩・改名・変装・話を盛るのが志士
幕末作品のお約束として、武士ならば脱藩、豪農ならば家からの出立があります。
家族に見送られつつ、江戸や京都をめざす青年の姿は感動的――物語であれば重要な場面になりますが、むろん現実はそう単純ではありません。
武士の脱藩は重罪です。
農民が家業を放置して家出することも迷惑なこと。
フィクションでは、主人公となる人物が成功した【生存者バイアス】があるため、その勇姿が描かれますが、実際には、そのまま家に戻れなかった哀しき志士も大勢います。
志士は偽名を使うことがよくあります。
江戸時代以前は一人が複数の名を名乗ることもよくありましたが、幕末にテロ行為をするために別名が必須となりました。
変装をし、潜伏することもあります。そうでなければ活動ができない。新選組における斎藤一の逸話が有名ですね。

斎藤一/wikipediaより引用
斎藤一の名前を挙げたのにも理由があります。
新選組は負け組であるため、忖度なしで記録を残せました。
悪いことでもありのままに描けますし、なんなら勝者サイドが話を盛っても文句を言われにくい。
ゆえに「内部粛清を繰り返し、暴力的で、強奪する野蛮な集団」というイメージができました。
これは新選組に関する情報だけでもありません。幕末の武装組織については、だいたいこの特徴があてはまります。
勝った方は自分たちを良く見せるためクリーンアップが実施されていることもあります。
いわゆる「歴史は勝者が作る」というものですね。
長生きして、かつ権力者ともなれば、都合のいいストーリーを流布できました。
志士は血に酔い天誅くだす
ここで思い出したいのが大塩平八郎のところで触れた「知行合一」という言葉です。
志士は思うだけではよろしくない。行動しなければ志士とはいえない。そう考えた彼らは突発的な行動に走りました。
そもそも江戸時代を通して、人々の暴力性は低下していました。
武士による「切り捨て御免」なんてまず起こらず、旗本御家人といってもろくに刀も振れたものではないと揶揄されたほどです。

それが幕末になるとガラリと変化。
幕末の人物には、うっかり誰かを斬って処分を受けた人物も多い。暴力傾向が蔓延しつつありました。
それがある人物がロールモデルとして浮上することにより、爆発したかのような感があります。
烈公こと徳川斉昭です。

徳川斉昭/wikipediaより引用
パワーにあふれ、熱狂的で、ともかく執拗。彼のキャラクター性は幕府を震撼させました。
大名個人の影響力という点では、長州や薩摩よりも致命的な影響を幕府に与えたのです。
幕政に乗り込んだ斉昭は、異人対策となるとこう主張。
「ええい、かくなる上は異人を斬ればよい!」
むろん斉昭本人は異人を斬りませんが、その力強さは人々、とりわけ志士を酔わせます。
そして斉昭の意を汲み取る水戸藩士たちが登場してきたのです。
「烈公のために行動に移さねばならん、知行合一!」
その結果起きたのが【桜田門外の変】でした。

桜田門外の変襲撃の図(月岡芳年)/wikipediaより引用
【桜田門外の変】で、志士は目覚めます。
行動すれば政治は変わる――その結果が攘夷テロの続発なのです。
「トンビ鼻の異人が気にいらん!」と侮蔑するだけでは事足りず、見かけたら斬りつける事件が続きました。
前述の通り、志士はともかく若い。血の気が多い若者たちは争うようにテロリズムへ走ったのです。
明治政府は天誅を禁止しましたが、行動第一の志士は止まりません。
結果、明治以降になっても大久保利通、横井小楠、大隈重信……と、数多の政治家がテロの標的とされました。
権力者が熱狂的なイデオロギーを主張し、それを民衆に吹き込むことがどれほどおそろしいか?
斉昭の存在は、そのことを示す歴史上の好例ともいえます。
そしてその暴力の矛先は、斉昭自身の水戸藩でも吹き荒れ、彼の死後に【天狗党の乱】が起き、幕末でも屈指の惨劇が展開されたのです。
※以下は「天狗党の乱」関連記事となります
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夫の塩漬け首を抱えて斬首された武田耕雲斎の妻|天狗党の乱はあまりにムゴい
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しかも惨劇の度合いが群を抜いていたため、水戸藩では人材が枯渇してしまい、明治新政府でも存在感を失っていました。
こうした志士の価値観をさして「幕末の日本人はこんなものだよね」とみなすことはできません。
来日外国人の記録には、こんな感慨があります。
「みな幸せそうで、好奇心に満ちた善良な日本の人々。ずっと彼らが幸せでありますように……。
だが、あのローニンたちはおかしい。恐ろしすぎる! 出くわさないようにしなければ」
志士は、当時の日本でも過激でした。
渋沢栄一は、その著書や講演で「今時の若者は我々の若い時代のような、思い立ったらすぐ行動する気迫がない」との旨を語っております。
しかし、明治時代の若者は幕末の志士のように行動できなくなっていました。
例えば前述のように明治政府は早々に天誅を禁止しています。
政府としては、志士のように若者が振る舞っては困るのです。
現代社会でも、志士をロールモデルにするなんてありえません。ともすれば「法を犯すこと」に繋がります。
そして結果的に、志士のテロルはむしろ近代化にブレーキをかけておりました。
関東で近代化に向けて励んでいた幕臣・小栗忠順の口癖はこうでした。
「金が足りない!」
幕府の財政はただでさえ慢性的に厳しいうえに、志士がテロを起こすたびに賠償金をせびられ、条約の条件も悪化してゆきます。
愛国を掲げてかえって国を危機に追い込む。そんな志士の暗部こそ、むしろ現代社会が学ぶべきことではないでしょうか。
志士は酒を飲み女と遊ぶ
『青天を衝け』では、渋沢栄一と渋沢喜作(渋沢成一郎)のコンビが、京都であっという間に金を使い果たしてしまいました。

渋沢成一郎(渋沢喜作・右)と渋沢栄一/wikipediaより引用
綺麗な芸妓と酒を飲み散財する場面を見て、「志士あるあるだよなぁ」と微笑ましく見守った方も多いようですが、ここで疑問。
なぜ、志士は酒と女に金を使うのか?
遊び盛りの若い男だからか?
否。
志士は“天誅”というテロ行為を行いました。
その計画ともなれば隠密行動が必須。若いお兄ちゃんたちが酒楼でどんちゃん騒ぎをしていても、京都の人々は見守るしかありません。あくまで上客ですからね。
そうして盛り上がったあと、女たちを下がらせ、テロ計画の密談に及んだのです。それゆえの酒と女でした。
志士は国を思うがゆえに、明日をも知れない身だと覚悟を決めておりました。そうなれば今日が最後だと楽しみたいという思いもある。
そうした話は多くありますし、幕末フィクションのお約束ではあります。
しかし、それを綺麗な話と片付けてよいものかどうか。
◆志士を愛する妻は?
志士の典型として、正妻に冷たいというお約束があります。
彼らにとっては、妻子に対する愛よりも「志」のほうが重い。
西行が妻子を蹴り飛ばしてでも出家して志を遂げたように、家を守る妻を顧みないことこそが、むしろ志士らしいとされていました。
『花燃ゆ』では相当ぼかされて映像化されていましたが、久坂玄瑞の妻・文は、夫から冷たい対応を取られています。

萩市にある久坂玄瑞像
それが志士の価値観です。
『青天を衝け』では栄一と千代が仲良くしておりましたが、史実の栄一は千代を家に置き去りにし、我が子を長年抱くことすらないような対応でした。
◆志士を愛した未亡人は?
そんな志士が命を落としたら?
典型例が坂本龍馬とおりょうでしょう。
あれほど龍馬を愛し、尽くしたにもかかわらず、おりょうは省みられることもなく落魄(らくはく・落ちぶれること)の日々を過ごしました。
誰も彼女たちをさして気に留めなかったのです。

楢崎龍(左)と坂本龍馬/wikipediaより引用
◆志士を愛し、玉の輿に乗った妻は?
では、夫が成功したら?
明治時代の権力者やお金持ちになったら勝ち組……とも言い切れません。
志士の時代の癖が抜けないせいか。明治時代の大物は下半身がゆるい人が非常に多い。
代表例が伊藤博文と渋沢栄一です。

幕末時代の渋沢栄一(左)と伊藤博文/wikipediaより引用
江戸時代のお殿様にしたって側室はいるものの、明治元勲ほどの遊び方でもない。
恥ずかしがって隠すどころか、堂々と妾自慢をするような空気がありました。男の甲斐性と見なされていたのですね。
しかし、真っ向から反論する者もいて、かの福沢諭吉はこう激怒しております。
「ゲスでもいいけど隠すことぐらい覚えろよな!」
明治時代、そうした性的な乱れを憂い、遊女たちの境遇改善を訴える中心にいたのは、プロテスタントの教えを受けた人々でした。
そうした世を横目に見ながら、栄一の後妻となった兼子は『論語』を説く夫をこう皮肉りました。
「論語とはうまいものを見つけなさったよ。あれが聖書だったら、てんで守れっこないものね」
維新志士と恋をする乙女ゲーがありますが、私はどうしても疑問を感じてしまいます。
維新志士の女になるなんて、バンドマンの彼女になるどころではない悲惨な末路しか想像できないもので……。
そして前述の渋沢栄一については、2025年になると現実社会と嫌な一致を見せてしまいます。
アメリカでは、実業家でありながらトランプ大統領に取り入るイーロン・マスクが物議を醸しております。そんなマスクは自分の血を引く我が子を大量生産するため、子を産む女性を募りだしたのです。
実業家でありながら政治家と癒着する。そして金に物を言わせて子を作りまくる。あの一万円札の顔になっているおじさんみたいだ……そう連想する意見が出てきたのでした。なんともゾッとさせられる一致です。
なお、幕末京都にいた層でも、会津藩士は例外的に女性とのロマンスが少ない。藩の教えで、婚外交渉が禁止されていたのです。
それでも破った山本八重の兄・覚馬は離婚となりました。
志士は金を集め散財する
京都まで来る。武器を買う。酒を飲む。女と遊ぶ。そうなればどんどん金は消えてゆきます。
では活動資金をどうするか?
薩摩藩や会津藩の場合、藩主の許可を得た行動ならば藩が金を出します。
とはいえ、会津藩は金欠です。これも元を辿れば志士が起こした【桜田門外の変】の影響といえる。本来、京都守護は彦根藩井伊家の役割でした。それが遠隔地の会津藩松平家に回ってきたものだから、交通費だけでも逼迫しているのです。
新選組の強奪を含めた金策。遊ばないせいで京雀に嫌われる会津藩士。その背景にはなんとも切ないそんな事情がありました。
一方、そうでないフリーランス志士はどうしていたのか?
◆スポンサーを探す
幕末までには身分階層を問わず、思想が広まっています。
尊王攘夷に理解を示す白石正一郎のようなスポンサーを見つければ話は早いものでした。
※以下は「白石正一郎」関連記事となります
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西郷や高杉が頼りにした尊皇商人・白石正一郎|なぜ明治政府は見捨てたか
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こうした豪商と志士の関係は、まさに「金の切れ目が縁の切れ目」となっていることも多く、その点に憐れみを感じてしまいます。
ちなみに【天狗党の乱】の際には、長州から水戸への資金援助もあったとのこと。
金の流れが何かとややこしいのも幕末の特徴ですね。
◆強奪する
「尊王攘夷である! 国のために金をだせ!」
理屈をかざして強奪するケースもありました。
志士の活動は綺麗ごとだけでもありません。これを最大限にした結果、悪名を極めた集団が天狗党になります。天狗党の乱では、あちこちで強奪放火を行いました。
関東で暴れたのは天狗党だけでもない、将軍様のお膝元の江戸でも治安が悪化しました。
中でも悪名高いのが直参の旗本・青木弥太郎です。青木は奉行所で攘夷決行を訴えるものの、「金がない」と却下されます。
そこで元吉原女郎である恋人の雲霧阿辰とタッグを組み、攘夷の軍資金を得るという名目で強盗殺人を繰り返したのでした。青木とは愛国を掲げ暴力を振るい、配信する迷惑炎上系ユーチューバーの元祖のような男です。
こうした攘夷志士の犯罪で江戸っ子の心が荒廃したためなのか、おそるべきジャンルが生まれました。
【無惨絵】や【血みどろ絵】と呼ばれる浮世絵のジャンルです。歌川派の若きエースである落合芳幾と月岡芳年が主に手掛けました。
文字通り血まみれで惨殺事件をモチーフにしたおそろしい絵。これは絵師がおかしいわけではありません。江戸っ子の需要を察知した版元が依頼し、人気絵師が応じたに過ぎないのです。志士は江戸っ子の心理にまで暗い影を落としていたのでしょう。

月岡芳年『英名二十八衆句』/wikipediaより引用
京都の新選組ばかりがこうした強奪をしていた印象がありますが、そうではないのです。むしろ志士の定番スキルですね。
◆外国商人と通じる
イギリス人商人・グラバーは自ら「私こそが最大のアンチ徳川幕府」と称したとされます。
幕末には幕府側にフランス、倒幕側にイギリスがついていました。
外国人商人からすれば、武器を売りつけることはビジネスチャンスに他なりません。南北戦争終結後に余っていた武器の買い手として、日本人はうってつけの相手でした。
五代友厚は、こうした「死の商人」グラバーと早くから通じた人物の典型例です。

五代友厚/国立国会図書館蔵
そして、志士とカネに翻弄された悲劇の代表例が【赤報隊】の相楽総三でしょう。
幕府にかわり世を糺す! そんな看板を掲げた新政府軍。
赤報隊も「年貢半減令」を喧伝しながら進軍したのですが、三井はじめ京都の豪商と手を組んだ新政府軍は、スポンサーである商人たちからこう言われてしまいます。
「年貢半減令、やめとくれやす」
かくして赤報隊は嘘をついて進軍していた偽官軍とみなされ、斬罪とされました。
明治政府における政財官の密着は、赤報隊の流した血と共に始まっていたのでした。
志士賛美は所詮「勝てば官軍」ではないか
志士の影響は現在にも至っています。
わかりやすいのが司馬遼太郎でしょう。
司馬の描く「志士の世界」を愛読書に挙げる。尊敬する人物に志士の名を挙げる。今なお、そんな方はたくさんいます。

司馬遼太郎/wikipediaより引用
志士の世界を描いたといえる『るろうに剣心』も漫画に映画に大ヒット。
乙女ゲーでは幕末ものが定番ですし、幕末ものの大河ドラマを見て、志士に憧れる人も当然いる。
だからなんだ? 単なる趣味の問題だろう……とも言い切れません。
物価高に苦しめられる日本で、政治家のパーティ券は大問題になりました。
「なぜ政治家はやたらと会食やパーティをしたがるんだ! 金と飲食抜きにして世論の声を聞きなさいよ!」
こうした疑問に対し、取材する側は「食事の席でこそ本音を引き出せる」云々弁明をします。
しかしそうでしょうか?
ヨーロッパでは、メディアが政治家にコーヒー1杯を奢られても癒着となるとされるのに、なぜ日本は特殊なのか?
このヒントが幕末志士の世界にあると言われたところで、陰謀論の類と思われるかもしれませんが、そういうことでもありません。
幕末の京都において、前述の通り、志士はテロリズムを繰り返しました。
往来には人間の切断された指が落ち、血の痕と刀疵が橋の欄干に残るような時代です。生き晒しにされたり、晒し首にされたり……大変な日々でした。
究極の災難は元治元年7月19日(1864年8月20日)に発生した【どんどん焼け】でしょう。
【禁門の変】で京都を戦場にしたため、火災が発生したのです。

禁門の変(蛤御門の変)を描いた様子/Wikipediaより引用
会津目線の『八重の桜』では会津藩士・山本覚馬が京都の人々から憎まれる描写がありました。
むしろ治安維持をしている京都守護職の会津藩なのに、どうしてこうも反発されるのか?
覚馬がそう戸惑う姿が印象的である一方、長州藩目線の『花燃ゆ』では「京都の人々は長州贔屓だ!」と誇らしげに描かれていたのです。
なぜそんなことになったのか?
答えは簡単、長州藩士は京都の街に金を落としました。常連の太客ですから、悪口を言わないのは当然です。
このことから明治政府元勲は学びました。
世論を餌付けすれば思うがままに動かせる。
明治時代からは新聞が発行されましたが、中には政府広報のようなメディアもありました。
治安維持法や大本営発表を待つまでもなく、持ちつ持たれつによって日本のメディアは弱体化していったのです。
★
なぜ維新の志士を悪く言うのか?
もしかしたら、そんな風に憤慨された方もおられるかもしれませんが、全体を捉えるように俯瞰していただければ幸い。
そもそも維新の志士たちの英雄像も正しいものでしょうか?
小説、ドラマ、映画、漫画、ゲーム。
元々はエンターテインメントに過ぎないものですが、明治以来のプロパガンダが影響していないとは言い切れない。
前述の通り、勝った側は好きなように盛れるものです。
『新選組!』が大河ドラマになった際、国会で「あんなテロリストを英雄として大河にするのか」との質問がありました。
『八重の桜』放映時には、大物政治家が不満を漏らしたと報道されました。
『花燃ゆ』放映時には、あれはよい大河だと大物政治家が自慢していたともされます。
『西郷どん』は明治維新150周年にあわせて放送されました。
幕末作品は、どうしたって政治とは切り離せない縁がある。
会津藩家老の子孫に田中清玄という思想家がいます。
『八重の桜』では佐藤B作さんが演じましたが、その子孫である田中清玄は司馬遼太郎の作品を「薩長の言い分を喧伝するもの」と評しています。
幕末志士の美化において、彼の果たした役割は大きく、かつ批判的な検証が根付いているとも言い難い。
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『司馬遼太郎が描かなかった幕末』が面白いからこそ湧いてくる複雑な思い
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もちろん闇雲に批判せよ、とは思いません。
ただ、歴史を見直す必要はあるのではないでしょうか。
歴史は、勝者・敗者の両面から見た方が、私達の社会にとっても良いことではないでしょうか。
ヒーロー像として美化されていない志士。その素の姿や価値観を知ることで私たちが得られるはずです。
しかし、大河ドラマですら、志士を美化するばかりであったのはここまで長々と述べてきた通りです。
それが2027年『逆賊の幕臣』でその流れが変わるかもしれません。
志士が京都でテロにはげむ中、主役の小栗忠順たちは関東で近代化を進めていました。倒幕がもはや止められぬと悟ると、小栗は自領に隠棲し、身重の妻の安産祈願をして過ごす日々を送りました。
そこを「勝てば官軍負ければ賊軍」と言わんばかりに、成り上がった志士たちが押しかけ、冤罪をふっかけ、弁明も許さぬままに小栗を斬首してしまうのです。
近代化においてフル稼働していた小栗忠順の名は忘れられ、知る人ぞ知るものとなってしまった。
その一方で、テロに励んでも日本近代化には悪影響しか残していない、人斬りのような人物までフィクション含めて繰り返し描かれてきた。
果たしてそれでよいのだろうか?
そこまで考える大河ドラマが、ついに放映されます。そのときを楽しみに待ちましょう。
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【参考文献】
芳賀登『幕末志士の世界 (江戸時代選書)』(→amazon)
小島毅『近代日本の陽明学 (講談社選書メチエ)』(→amazon)
三好徹『政・財 腐蝕の100年 (講談社文庫)』(→amazon)
斎藤貴男『「明治礼賛」の正体 (岩波ブックレット)』(→amazon)
一坂太郎『幕末時代劇、「主役」たちの真実 ヒーローはこうやって作られた!』(→amazon)
一坂太郎『暗殺の幕末維新史: 桜田門外の変から大久保利通暗殺まで』(→amazon)
礫川全次『攘夷と憂国: 近代化のネジレと捏造された維新史』(→amazon)
他








