奄美大島での西郷隆盛

西郷の流罪先となった奄美大島

幕末・維新

奄美大島で「狂人」と呼ばれた西郷~現地でどんな生活が待っていた?

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奄美大島の西郷
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「大島商社」で黒糖地獄の延長戦

この西郷の姿勢を裏付ける話があります。

明治4年(1871年)。

西郷は、薩摩の盟友・桂久武にある計画を提案しました。

桂久武
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当時、西郷は政府の筆頭参議でした。

にもかかわらず政府の砂糖勝手販売(自由売買)を批判し、専売商社を作ることを着想。

薩摩藩の圧政から逃れた島民を商社の元で管理し、砂糖売買を独占しようというのでした。

なにも西郷は私腹を肥やそうだなんて考えてはおりません。貧窮した薩摩の士族を救うためです。

が、島民からすればたまったものではない。

そもそも、こんな計画が政府に発覚したら相当危険なものです。西郷自身もそのことを意識しており、目立たぬようにすべきであると、桂久武に指示しております。

政府の中枢にありながら、政府を欺こうとする――。

西南戦争へと続く政府との断絶は、征韓論の前から、既に始まっていたことを感じさせますね。

この強引な計画は、言葉だけでなく実行にも移され、明治5年(1872年)には「大島商社」が設立。

厳しい搾取が始まり、奄美大島からは何度も陳情団が鹿児島県へと向かいました。

が、彼らの嘆願は聞き入れられません。

それどころか投獄・拷問されることすらありました。

西南戦争が始まったあとは、不運な陳情団の人々が、強制的に従軍させられたことすらあったのです。

そして明治12年(1879年)に「大島商社」が解散されるまで。

西郷による、士族を救うための【黒糖地獄 延長戦】が行われていたのでした。

 

「敬天愛人」とは言うけれど

天を敬い、人を愛する、崇高な人類愛――。

「敬天愛人」とは、西郷隆盛を最も端的に表す言葉の一つですね。

ところが、です。

奄美の人に対する姿勢や「大島商社」の行動を考えると『西郷は本当に人を愛していたの?』と疑問を覚えませんか。

振り返ってみれば、西郷隆盛にとって鹿児島の士族、情けをかけた庄内藩士らは「人」の範疇に入りました。

しかし、薩摩藩が一段下の存在と見なしていた島民は別です。

西郷にとって彼らは「けとう」であり「えびす共」でした。

「人」ではなかったのです。

ただし、これは西郷一人の問題ではありませんし、そのことを責めたいという話でもございません。

1789年にフランスで「人間と市民の権利の宣言」が議会によって採択された際、「人間と市民」に含まれていたのは、あくまでフランス人男性のみでした。

女性や有色人種が「人間と市民」に含まれるまでは、長い紆余曲折がありました。

19世紀後半、自国の男性だけを人間扱いしたからといって、それはある程度仕方のないことかもしれません。

ただし。

フィクション作品等で、西郷を「島の恩人」であると過剰に描くのは問題があるかもしれません。

そうなると島の方々から反発されても、仕方の無いこと。

そもそも西郷隆盛の功績は「奄美大島の救世主」とムリに作り上げるより、もっと他にふさわしいものがあるでしょう。

フィクション作品は、そちらにより強い光を当てたほうが無難な気がするのです。

皆さんはいかがお考えでしょうか。

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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link

【参考文献】
箕輪優『近世・奄美流人の研究』(→amazon
『国史大辞典』

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