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【林忠崇】
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敗戦後は20年以上も苦しい生活が続く
こうして残された藩士や領民はお咎めを受けずに済みました。
当然のことながら請西藩は改易となります。
忠崇たちは館山から相模湾に上陸し、箱根・伊豆で戦った後、東北へ移ってさらに転戦。
しかし奥羽越列藩同盟の盟主・仙台藩が降伏したこと、徳川家の存続が約束されたと聞き、忠崇は潮時と見て新政府軍に降伏しました。
きちんと引き際を決めているあたり、やはり英邁な人ですね。
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林家は甥の忠弘が継ぎ、士族として300石をもらえましたが、忠崇自身は赦免の後も困窮しました。
開拓に行ったり、東京や大阪で下級役人として働いたり、はたまた函館の商家で働いたり。いろいろな職をやっていた時期があります。
そうして20年以上も苦しい生活をした後の明治二十六年(1893年)、他の旧藩士たちの嘆願によって、林家の家名復興が認められました。
忠弘は男爵を、忠崇は従五位を授けられ、宮内省(宮内庁の前身)や日光東照宮などに勤務。
もう少し早ければ、同じく日光東照宮の宮司を務めていた松平容保とあれこれ語らう機会もあったかもしれません。
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忠崇が日光東照宮に行った頃には、容保は東京で療養中、もしくは既に亡くなっていた可能性が高いので、おそらく名前を聞くくらいだったでしょうが。
その後は昭和十六年(1941年)92歳まで長生きした……というわけです。
辞世の句は明治元年にやったから、今はない
最期まで頭はしっかりしており「辞世の句はありますか」と尋ねられたときは、
「(73年前の)明治元年にやったから、今はない」
と答えたといいます。カッコイイ。
ちなみにその73年越しの辞世の句は……。
真心の あるかなきかは ほふり出す 腹の血しおの 色にこそ知れ
訳する必要はないほど平易な歌ですが、書き添えるとすれば
「(これから切腹する)私の腹から出る血の色を見れば、真心があるかどうかはわかってもらえるだろう」
というところでしょうか。
いかにも戊辰戦争時の写真そのままの、忠義に厚い青年の辞世という感がありますね。
晩年まで、忠崇はそういう考えの持ち主だったのでしょう。
辞世として詠んだものではありませんが、晩年の作として「琴となり 下駄となるのも 桐の運」という句もあります。
こちらを訳すとしたら、こんな感じですかね。
「同じ桐の木でも、室内で愛でながら使われる琴になるものも、屋外で日常の役に立つ下駄になるものもある(だから人間も、同じ生まれでもエラくなる人もいれば、そうでない人もいる)」
幕末・明治・大正・昭和と生きてきて、武家の人の中にも総理大臣その他高官まで上り詰めた人もいれば、自分のように市井の一個人として生きている者もいるのだ、と表したかったのかもしれません。
もう少し深く推量するとすれば「だから、武家が守ってきたものも大切にしてやってくれ」という願いもこもっているような気がします。
最近ではじわじわと知名度が上がってきましたし、そのうち小説や映画などの主人公に抜擢されて、人気が出てくるかもしれません。
大河ドラマ『青天を衝け』に登場させて欲しかったなぁ……。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
安岡昭男『幕末維新大人名事典』(→amazon)
歴史群像編集部『全国版 幕末維新人物事典』(→amazon)
林忠崇/wikipedia