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【高橋泥舟】
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槍術で官位までもらった
武芸達者で、天才的な槍術使い。
いつしか「海内無双」と呼ばれるようになった泥舟は、22才の頃には講武所の教授に命じられました。
そして彼は後に、朝廷から【従五位伊勢守】にまで任じられることになります。
勝海舟曰く、
「彼の技量を孝明天皇まで知ることになって、槍一本で伊勢守にまでなった」
とのこと。
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「馬鹿正直で命知らずな稽古をやった」とまで言われています。
開明派で『これからは大砲だ、軍艦だ』と思っていた勝にしてみれば、槍などに一生懸命になるのは時代錯誤だよ、というところでしょうか。
しかし、これは小馬鹿にしているわけではありません。
その誠意やひたむきさに対する賞賛も入り混じっての言葉です。
泥舟の真っ直ぐな性格が窺えます。
清河八郎と意気投合し、上洛
かように真っ直ぐな性格の高橋。
幕末には、血気盛んな若者らしく、尊皇攘夷思想にその心を燃やしていました。
そして万延元年(1860年)。
槍術の師範になった泥舟は、ある男と知り合います。
庄内藩士の清河八郎です。
新選組ファンを中心として、
「口がうまくて悪企みをするあやしい男」
という評価がありますが、ちょっと再考が必要な人物でしょう。
ただのうさんくさい男と片付けられないほど著名人と親しく交際しており、彼の魅力や交渉力は相当高かったのだと思われます。
文久2年(1862年)。
江戸幕府により浪士組が結成されると、高橋は義弟・山岡鉄舟らとともに、将軍・徳川家茂の供として京都に向かいます。
ここで清河が「将軍のためではなく、尊皇攘夷のために浪士組を集めた」と目的を述べたことで、浪士組は分裂。
近藤勇ら多摩試衛館で剣術を学んできた者たちと、水戸藩士・芹沢鴨らは「壬生浪士組(新選組の前身)」を結成するわけです。
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残った浪士組は、幕臣・鵜殿鳩翁(うどの きゅうおう)に管理を任されたもののてんでバラバラ。
泥舟が管理役として任命されると、やっとまとまるようになりました。
この上洛の際、家茂から泥舟の槍の技量について聞いた孝明天皇が、従五位伊勢守を与えたとされています。
泥舟、山岡、清河らは「壬生浪士組」が抜けたあとの浪士組を率いて、江戸に戻りました。
壬生浪士組の面々は
「清河八郎、俺たちを騙しやがったな!」
と怒っていたわけですが、泥舟と山岡は違います。
断固として、これからも尊皇攘夷を訴えねばならない――幕臣でありながら二人はそう考えていたのです。
そんな中、泥舟の家を訪れたあと、清河が暗殺されてしまいます。
同時に、幕臣でありながら尊皇攘夷を唱え、清河と懇意だった泥舟も謹慎処分。
世間の動乱から一歩身を退き、槍に打ち込む日々を送るのでした。
とはいえまったく政治に無頓着だったわけでもなく、長州征討に関しては「行うべきではない」という上書を提出しています。
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