明治十年(1877年)2月22日、西南戦争における熊本城の戦いが始まりました。
そもそも西南戦争がなぜ始まったのか?
という疑問は以下の記事に譲りまして、
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ともかく西郷らは海上ではなく陸路で北上。
そこに立ちはだかったのが熊本城であり、このとき既に明治政府のものでした。
陸軍の各種施設や熊本鎮台という役職があったため、これより五ヶ月ほど前に起きた不平士族の反乱【神風連の乱】でもターゲットになっています。
そちらは一日で鎮圧されましたが、今度は鬼すら逃げ出す「薩摩隼人」のご登場です。
しかし熊本城もまた築城名人・加藤清正の偉大な遺産ですから、この戦いはある意味名勝負でもありました。
実際に戦う人たちにとってそんな美しい表現は気に入らないかもしれませんが、後世の一個人としてはそう思います。
御託はさておき、そろそろ戦いの経過を見ていきましょう。
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ヤル気満々の薩摩反乱軍>城方の士気だったが……
城方=政府側の士気はお世辞にも高いとはいえない状態でした。
神風連の乱は前述の通り期間としては短かったものの、一部の兵舎を全焼させたり、多くの官憲が殺傷されていたからです。
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そこから一年も経たないうちに、士気も準備も万端な薩摩隼人たちがやってくるというのですから、そりゃあ戦う前から嫌気が差すに決まってます。
当時の熊本鎮台長官・谷干城(たにたてき)はこの状況をよく理解していました。
このまま打って出れば、味方の負けは必死。そうなったとしたら、できたばかりの明治政府そのものも危うくなる――。
彼は、薩摩軍が到着する前に篭城戦を決意したのです。
熊本城内は約4,000人。
対する薩摩軍は13,000人ほど。
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せっかくの城があるのに、打って出ていくには危険すぎます。
しかもバリバリ武士の薩軍と違い、城方の兵は多くが農民出身。
仮に篭城すれば、守る方が有利であり、攻め手は数倍以上の人数が必要だと言われておりますから、熊本城での籠城戦であれば少なからず粘れる見込みは十分ありました。
更には、後に日露戦争の英雄の一人となる児玉源太郎も谷の補佐をよく務めました。
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また、西郷と親しく当初は薩摩サイドでは?と思われた樺山資紀(かばやますけのり)も政府軍として健闘します。
そのため城方は何とかもちこたえました。
3日間全力で攻撃するも埒あかず兵糧攻めに
薩摩軍から見ると、21日に来て24日まで三日間の直接攻撃をしても埒が明かなかったという感じになります。
そこで真正面から攻めきれないと見ると、兵糧攻めに切り替えました。
敵が多いということはそれだけ食料も必要なわけですから、時間がかかることを厭わなければ、真正面からぶつかる必要はないわけです。
着眼点は良かったかもしれません。
しかし、簡単にはいきません。
明治政府軍は後詰を送ってきます。西郷軍を蹴散らすために、別方面から新たな軍団を送り込んできたのです。
薩摩軍は3,000人を熊本城に残し、政府軍に備えるべく北へ向かいましたが、こうなるとやはり数で劣るほうが徐々に押されていく、というのは皆さんもうお気づきですよね。
とはいえ、ただダラダラ長引いたのではなく、時には薩摩側からの砲撃もあったため、やはり城方も難儀したようです。
数十~数百人規模の犠牲が出た戦闘もありました。
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