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【大西郷という虚像】
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久光に対する態度は言語道断
筆者の態度は、当然と言えば当然ですが、西郷に極めて厳しいものです。
間部詮勝殺害計画から、島津久光への態度まで。苦々しくこれまた斬って捨てます。
特に手厳しいのは久光への態度です。
西郷の敵とされる島津久光はむしろ名君~薩摩を操舵した生涯71年
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久光を手厳しく批判し「地ゴロ」と呼ぶ。
さらには久光の命令を無視して勝手な行動を取ってしまう。
こうした西郷の独断専行ともいえる行動を、筆者は手厳しくチェックし、言語道断だと非難。
その独断専行あってこその西郷の躍進という考え方もありますが、確かにこのあたりはモヤモヤする点であるというのは、私も同意します。
西郷の久光への態度は、辛辣です。
そして筆者の矛先は鋭く、薩摩そのものにも向かいます。
「密貿易の国」がそもそも攘夷を目指したのか?
筆者は薩摩藩に対し、根源的な問いをつきつけます。
「そもそも密貿易で収益をあげていた国が、攘夷を目指すだろうか?」
ハッとさせられました。
薩摩はむしろ「もっと国を開いて通交しろ!」と幕府に要求するほうが自然かもしれない。
そして次の矢が投げかけられます。
「そもそも薩摩は倒幕を目指していたのか?」
確かにこれは引っかかっていた点です。
西郷や大久保ら倒幕派は藩内で孤立気味で、主流は雄藩による政権樹立が久光の方向性でした。
攘夷もない。
倒幕もない。
そうなると薩摩は一体何を目指していたのか。
このあたりをバッサリと「全ては策略好きであった西郷の意図に引きずられた」という結論に持って行きます。
なぜ西郷は強引に武力倒幕を進めた?岩倉や薩摩は下策としていたのに
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まぁ確かに、薩摩藩というのは、「トップの久光」と「臣下である西郷や大久保ら」の考え方・行動がバラバラだったのは、その通りであるのですけれども。
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