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【赤山靭負】
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お由羅騒動で見せしめに?
赤山と西郷にとって、一大事となったのが【お由良騒動】です。
幕末薩摩を描く上で、避けては通れない定番トラブルの筆頭ですが、なんとこの騒動で赤山靭負は切腹に追い込まれます。
避けては通れないどころか、ここで命運が尽きてしまうのですね。
お由羅騒動とは、島津斉興の跡取りに関連してその息子・島津斉彬派とその異母弟・島津久光派で藩内が分断されたトラブルですね。
幕末薩摩で起きた哀しき内紛「お由羅騒動」 狙われたお由羅の方はどうなった?
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詳細は上記の記事に譲らせていただきますが、このとき西郷隆盛の父・西郷吉兵衛に関するエピソードがありまして。
赤山が切腹した際、吉兵衛が介錯をつとめたというのです。
真相は定かではないのですが、後の西郷と斉彬、あるいは桂久武との関係から、そんな話がまことしやかに伝えられたのかもしれません(もちろん実際に行ったかもしれません)。
赤山は実際のところ、騒動にはさほど関与していなかったとされます。
では、なぜ彼は自害へと追い込まれたのか?
背景にあるのが四人兄弟の処遇問題ではないでしょうか。
彼の兄弟は久徴はじめ全員が斉彬派でした。
名門の御曹司たちが全員斉彬派。それが御家騒動になって誰も何のお咎めなしというのもマズイ。
しかし、日置島津家を継いだ久徴に死を命じるのも、さすがに藩内の打撃も大きいし……ならば赤山ぐらいの見せしめが適任では?……と考えられた可能性は否定できないでしょう。
死によって歴史を動かした
切腹した際、まだ27才であった赤山。
吉兵衛は、遺品として血染めの肩衣を持ち帰ったとされています。
赤山の最期について、吉兵衛から聞かされた西郷が悔し涙を見せる姿は、彼の人生序盤のハイライトと言えましょう。
実際、どの程度、両者が親しかったのかはわかりません。
それでも、派閥争いで犠牲にあった人物の遺品が、西郷の胸に闘志と憎しみの炎を点火したことだけは確かです。
歴史には、死によって時代を動かす人物もおりますが、赤山も、そうした一人だったと考えられるのではないでしょうか。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
国史大辞典
家近良樹『西郷隆盛 維新150年目の真実 (NHK出版新書 536)』(→amazon)
北康利『西郷隆盛 命もいらず 名もいらず』(→amazon)