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【幕末のお姫様】
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不運 島津斉彬の姫君たち
明治維新の勝利者となれば、こんな華やかな道があったのかと思えますが、例外もあります。
明治維新以降、西洋文明に嫌悪感を抱く「国父」こと島津久光が睨みを効かせていた島津家の姫ともなれば、そうはなりません。
鹿鳴館もドレスも縁遠いものでした。
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久光の子にして最後の薩摩藩主・島津忠義の正室は、かの島津斉彬の姫。父の撮影した写真では、真ん中に映っています。
斉彬の男子は夭折した結果、久光の血統が薩摩宗家として残されています。
【お由羅騒動】で斉彬を支持していた西郷隆盛や大久保利通からすれば、その久光の子である忠義に斉彬の姫が嫁ぐということは、願ってもないことです。
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斉彬の血を引く島津家の男児誕生は、強く望まれたはずでしたが、その重圧もあったのか、彼女は明治2年(1869年)の出産直後に亡くなってしまいます。
その後、忠義には島津斉彬の娘(妹)寧子が嫁ぐものの、明治12年(1879年)に彼女とついで男児も夭折。
斉彬の血を引く島津家後継はできないまま終わったのでした。
徳川吉子(水戸藩主・徳川斉昭正室)
勝ち組の姫君たちが、打掛からドレスに着替え、華やかな明治を生きる中。
負けた側の姫君は、命からがら戦火の中を生き延び、ドレスではなく粗末な衣服を身につけ、明治を生きることすらありえました。
島津の姫というよりも、徳川の妻として家の存続に生き抜いた天璋院・篤姫は有名です。
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彼女以外にも、苦難を生きた姫たちがいました。
徳川吉子(よしこ)、吉子女王とも呼ばれ、夫は幕末初期において台風の目となった徳川斉昭。徳川慶喜の父でもあります。
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斉昭は、あまりに性的に放埓であり、女性相手にともかく尊大。無体な振る舞いに及ぶこともあり、そのせいで大奥からは嫌われておりました。
それが【将軍継嗣問題】に影響を及ぼしたともされています。
篤姫は、慶喜を将軍にするため徳川家定に嫁いだようなものです。
しかし、家定の母・本寿院は、
「あんな斉昭の子・慶喜を将軍にするくらいなら、自害する!」
と言って聞かなかったため、挫折してしまったそうです。
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そんな斉昭ならば、正室・吉子にもさぞや嫌われていたのではないか? と思いそうなところですが、実はそうでもありません。
有栖川宮家の姫君であった吉子は、多くの子に恵まれました。
しかも彼女は、書、刺繍、和歌、茶道、琴と篳篥演奏のまでこなす才知溢れる女性で、読書を好みました。
大奥で嫌われたことを考えますと、ちょっと信じがたいことがあります。斉昭は妻を愛するあまり、側室すら置こうとしなかったのだとか。
それを吉子が「やめとくれやす。うちの嫉妬深さのせいで側室も許さないと思われたらいやどすえ」と、夫に側室を勧めたというのですから、驚かされます。
吉子は、夜中に斉昭が用足しに立つと、布団から出て両手をついて待っていたほど。あの斉昭もやめてくれと言っても、聞かなかったそうです。
将軍となった慶喜は、皇室への尊敬の念が強いものでした。
鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」が翻ると即座に退却を決めたほど。それも、公家出身の母への敬意もあったのかもしれません。
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そんな吉子が苦難にぶつかったのが、幕末です。
夫は死去。
我が子・慶喜は将軍として江戸や京都。
水戸藩主・慶篤までも死亡。
そんな水戸藩を守る精神的支柱は、吉子であったのです。
戊辰戦争の戦火が広がる中、水戸藩は全藩屈指の内戦に陥り、悲惨な状況を迎えます。
藩校・弘道館と城本丸で銃撃戦が発生し、同じ藩士同士が殺しあう地獄の様相を呈しました。
それでも何とか持ったのは、吉子が本丸にとどまったこともあったからかもしれません。
精神的な主柱として、吉子はよく耐え抜きました。
慶喜ともども静岡に移ると、母子は親子らしい時間がやっと戻りました。
熱海温泉でゆっくりすることもあったそうです。
激動の時代を生きた吉子に、そんな晩年があったのは幸いなことでした。
松平照(松平容保義姉)
姫というのは、大抵は誰かの妻か母として名を残すもの。そんな中での例外が、義弟・容保とともに会津戦争を戦い抜いた照姫(てるひめ)です。
2013年大河ドラマ『八重の桜』では、稲森いずみさんが演じました。
容保に淡い恋心を抱いていたように描かれた照姫。完全なフィクションというわけでもなく、史実でもそうではないかと思わせるところがあります。
史実でも元婚約者であり、濃密な関係にあり、戦友でもあった姫でした。
上坂飯野藩主・保科正丕の姫として生まれた彼女は、松平容敬の養女となりました。
将来、しかるべき婿を迎え、会津藩主夫人となるため、照姫は厳しい教育を受け、才知溢れる女性に育ちます。
そんな彼女にとって、将来の婿である義弟・容保が美濃高須家よりやってきます。
お互い夫婦になることを夢見て、姉と弟は育ったことでしょう。
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しかし、容敬に敏姫という娘が生まれたため、この婚約は取り消されてしまいます。
容保はこの敏姫を妻としたのです。
婚約者を失った照姫は、豊前中津藩主・奥平昌服に嫁ぎました。
先進的な家老である山川重英(山川浩・健次郎・大山捨松らの祖父)は、敏姫に種痘接種を勧めていたものの、御典医の反対により実現しませんでした。
そしてこの敏姫は天然痘に罹り、美貌を失ってしまいます。結果、気鬱気味になり、夭折してしまったのです。
そんな中、照姫は自らの意思で離婚し、実家の会津松平家に戻ります。容保が京都守護職として会津を去る中、照姫は城を守るべくそこにいたのでした。
彼女の祐筆は、高木時尾という藩士の娘でした。
この時尾は明治以降、藤田五郎の妻となります。
夫の幕末京都での名は斎藤一。
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そんな会津に、戊辰の戦火が迫ります。
女たちも戦おうとしてあるいは薙刀、あるいはスペンサー銃を装備し、立ち上がりました。
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「照姫様をお守りする!」
女たちは、そう言い合っていたのです。
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照姫はそんな女たちを束ねる存在でした。
砲弾が飛び交う中、城中を見て回り、自ら負傷兵の看病にあたりました。
落城後、照姫は容保とともに謹慎生活を送ります。
正室よりも、側室よりも、容保と過ごした時間が長い女性。
それが照姫でした。
強い精神的な支柱として、幕末会津を生き抜いたのです。
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