幕末のお姫様

左から毛利安子・鍋島栄子・島津斉彬の娘たち/wikipediaより引用

幕末・維新

幕末維新のお姫様は自らの舞台で戦った! 鹿鳴館や籠城戦に北海道移住で開拓へ

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不運 島津斉彬の姫君たち

明治維新の勝利者となれば、こんな華やかな道があったのかと思えますが、例外もあります。

明治維新以降、西洋文明に嫌悪感を抱く「国父」こと島津久光が睨みを効かせていた島津家の姫ともなれば、そうはなりません。

鹿鳴館もドレスも縁遠いものでした。

久光の子にして最後の薩摩藩主・島津忠義の正室は、かの島津斉彬の姫。父の撮影した写真では、真ん中に映っています。

島津斉彬の娘たち(左から典姫・暐姫・寧姫)/wikipediaより引用

斉彬の男子は夭折した結果、久光の血統が薩摩宗家として残されています。

お由羅騒動】で斉彬を支持していた西郷隆盛大久保利通からすれば、その久光の子である忠義に斉彬の姫が嫁ぐということは、願ってもないことです。

斉彬の血を引く島津家の男児誕生は、強く望まれたはずでしたが、その重圧もあったのか、彼女は明治2年(1869年)の出産直後に亡くなってしまいます。

その後、忠義には島津斉彬の娘(妹)寧子が嫁ぐものの、明治12年(1879年)に彼女とついで男児も夭折。

斉彬の血を引く島津家後継はできないまま終わったのでした。

 


徳川吉子(水戸藩主・徳川斉昭正室)

勝ち組の姫君たちが、打掛からドレスに着替え、華やかな明治を生きる中。

負けた側の姫君は、命からがら戦火の中を生き延び、ドレスではなく粗末な衣服を身につけ、明治を生きることすらありえました。

島津の姫というよりも、徳川の妻として家の存続に生き抜いた天璋院・篤姫は有名です。

彼女以外にも、苦難を生きた姫たちがいました。

徳川吉子(よしこ)、吉子女王とも呼ばれ、夫は幕末初期において台風の目となった徳川斉昭

徳川慶喜の父でもあります。

斉昭と慶喜の女性スキャンダル

徳川斉昭(左)と徳川慶喜の親子/wikipediaより引用

斉昭は、あまりに性的に放埓であり、女性相手にともかく尊大。無体な振る舞いに及ぶこともあり、そのせいで大奥からは嫌われておりました。

それが【将軍継嗣問題】に影響を及ぼしたともされています。

篤姫は、慶喜を将軍にするため徳川家定に嫁いだようなものです。

しかし、家定の母・本寿院は、

「あんな斉昭の子・慶喜を将軍にするくらいなら、自害する!」

と言って聞かなかったため、挫折してしまったそうです。

そんな斉昭ならば、正室・吉子にもさぞや嫌われていたのではないか? と思いそうなところですが、実はそうでもありません。

有栖川宮家の姫君であった吉子は、多くの子に恵まれました。

吉子女王/wikipediaより引用

しかも彼女は、書、刺繍、和歌、茶道、琴と篳篥演奏のまでこなす才知溢れる女性で、読書を好みました。

大奥で嫌われたことを考えますと、ちょっと信じがたいことがあります。斉昭は妻を愛するあまり、側室すら置こうとしなかったのだとか。

それを吉子が「やめとくれやす。うちの嫉妬深さのせいで側室も許さないと思われたらいやどすえ」と、夫に側室を勧めたというのですから、驚かされます。

吉子は、夜中に斉昭が用足しに立つと、布団から出て両手をついて待っていたほど。あの斉昭もやめてくれと言っても、聞かなかったそうです。

将軍となった慶喜は、皇室への尊敬の念が強いものでした。

鳥羽・伏見の戦いで「錦の御旗」が翻ると即座に退却を決めたほど。それも、公家出身の母への敬意もあったのかもしれません。

そんな吉子が苦難にぶつかったのが、幕末です。

夫は死去。

我が子・慶喜は将軍として江戸や京都。

水戸藩主・慶篤までも死亡。

そんな水戸藩を守る精神的支柱は、吉子であったのです。

戊辰戦争の戦火が広がる中、水戸藩は全藩屈指の内戦に陥り、悲惨な状況を迎えます。

藩校・弘道館と城本丸で銃撃戦が発生し、同じ藩士同士が殺しあう地獄の様相を呈しました。

それでも何とか持ったのは、吉子が本丸にとどまったこともあったからかもしれません。

精神的な主柱として、吉子はよく耐え抜きました。

慶喜ともども静岡に移ると、母子は親子らしい時間がやっと戻りました。

熱海温泉でゆっくりすることもあったそうです。

激動の時代を生きた吉子に、そんな晩年があったのは幸いなことでした。

 


松平照(松平容保義姉)

姫というのは、大抵は誰かの妻か母として名を残すもの――そんな中での例外が、義弟・容保とともに会津戦争を戦い抜いた照姫(てるひめ)です。

2013年大河ドラマ『八重の桜』では、稲森いずみさんが演じました。

容保に淡い恋心を抱いていたように描かれた照姫。

完全なフィクションというわけでもなく、史実でもそうではないかと思わせるところがあります。

史実でも元婚約者であり、濃密な関係にあり、戦友でもあった姫でした。

松平容保/wikipediaより引用

上坂飯野藩主・保科正丕の姫として生まれた彼女は、松平容敬の養女となりました。

将来、しかるべき婿を迎え、会津藩主夫人となるため、照姫は厳しい教育を受け、才知溢れる女性に育ちます。

そんな彼女にとって、将来の婿である義弟・容保が美濃高須家よりやってきます。

お互い夫婦になることを夢見て、姉と弟は育ったことでしょう。

しかし、容敬に敏姫という娘が生まれたため、この婚約は取り消されてしまいます。

容保はこの敏姫を妻としたのです。

婚約者を失った照姫は、豊前中津藩主・奥平昌服に嫁ぎました。

先進的な家老である山川重英(山川浩・健次郎・大山捨松らの祖父)は、敏姫に種痘接種を勧めていたものの、御典医の反対により実現しませんでした。

左から山川捨松・山川浩・山川健次郎/wikipediaより引用

そしてこの敏姫は天然痘に罹り、美貌を失ってしまいます。結果、気鬱気味になり、夭折してしまったのです。

そんな中、照姫は自らの意思で離婚し、実家の会津松平家に戻ります。容保が京都守護職として会津を去る中、照姫は城を守るべくそこにいたのでした。

彼女の祐筆は、高木時尾という藩士の娘でした。

この時尾は明治以降、藤田五郎の妻となります。

夫の幕末京都での名は斎藤一

新選組最強剣士の一人です。

斎藤一/wikipediaより引用

そんな会津に、戊辰の戦火が迫ります。

女たちも戦おうとしてあるいは薙刀、あるいはスペンサー銃を装備し、立ち上がりました。

「照姫様をお守りする!」

女たちは、そう言い合っていたのです。

照姫はそんな女たちを束ねる存在でした。

砲弾が飛び交う中、城中を見て回り、自ら負傷兵の看病にあたりました。

松平照/wikipediaより引用

落城後、照姫は容保とともに謹慎生活を送ります。

正室よりも、側室よりも、容保と過ごした時間が長い女性。

それが照姫でした。

強い精神的な支柱として、幕末会津を生き抜いたのです。

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