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【由利公正】
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福井発マネーの虎は龍馬とも仲良しに
しかし、当時の福井藩は幕末政治に深く関与していたため、由利も浮沈を経験します。
文久2年(1862年)、島津久光による幕政改革。
このとき、政事総裁職にあった慶永に対し、由利は列藩会議を建議するのですが、翌年は藩論が一変してしまい、一時、幽閉蟄居を命じられてしまうのです。
ひそかに薩長支持を取り付けようとした――それが失脚の原因となったようです。
謹慎中はさすがに停止するかと思われた由利の活動も、世間は放置しません。
土佐藩から、意気盛んな青年藩士・坂本龍馬がやって来て、彼と話し込んだのです。
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海援隊の坂本が、先進性あふれる由利に心惹かれるのは当然のことでしょう。
経済政策を語り合いながら、この二人で「五箇条の御誓文」原案をまとめたとも伝わります。
「こりゃあ福井の由利公正殿に財政を任せたらええ!」
そんな坂本の推挙が、明治新政府に届いたのでしょう。
かくして明治政府の財政大臣第一号は、薩長土肥ではなく福井藩から生まれたのです。
そして坂本が二度目の福井訪問を果たした一週間後。足羽川沿いを歩いていた由利は、ふとした拍子に坂本の書状を落としてしまいました。
奇しくも同じ時、京都で凶刃にかかり命を落としていた坂本——。
そんな二人の伝説すらあるほど相通ずる関係でした。
明治政府の財政は任せろ!
明治元年(1868年)。
今から150年前に晴れて維新政府は成立しました。
めでたいことですが、その困難にも思いを馳せてみますと……。
このとき、由利は新政府から徴士され、参与職として登用、「御用金穀取扱方」を命じられました。
新政府の財政トップ。
恐ろしい話です。
貨幣単位を刷新し、政府のために金を集め、西洋との公益で稼ぐ。これを明治元年のうちに由利はやってのけます。
会計基立金300万両を集め、金札(太政官札)3000万両を建議し、承認されたのです。
「由利財政」と呼びます。
三井・小野・島田という、日本三都の商人を中心に応募をして、およそ285万両の基立金を確保しました。
ただし、明治元年5月発行開始の金札に関しては、失敗。
不換紙幣である金札を貸し付ける機関として商法司・商法会所を設立し、殖産興業のための資金捻出を目的とした金札のはずが、実際には政府の財政赤字補てんにあてられたのです。
そもそも政府が宙ぶらりんの時点で、誰がそんな金札の社会的信用をしますか?って話です。
結局、信用度が低過ぎて全国的に流通せず、政府は紙幣の正価通用令を出して強制的な流通をはかる羽目になりました。
しかし、そんな強引なマネーを外国としては扱いたがらずこれに反対。金札の時価通用を認めざるをえなくなります。
かくして、由利の紙幣政策は予期した成果をあげられず、辞職に至ります。
むしろ、これをどうやって成功させればよかったの?という話なんですが。
もともとが武士だからでしょうか。
薩長土肥はじめとした新政府関係者は、財政については一切ヤル気を持ちあわせておりませんでした。
「軍事改革ならおれに任せるがええ!」
「警察改革ならおいどんがやりもす!」
「財政は……」
「あんたがやれば?」
「困った! 財政はおいにはわからん!」
とまぁ、財政については岩倉具視ぐらいしか、相談相手もおりませんでした。
岩倉具視・薩長ではない幕末の下級貴族がなぜ明治政府の主要メンバーに選ばれた?
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坂本龍馬暗殺の弊害は、ここが直撃したかもしれません。
財政キャリアが途絶したあと、由利は別職種で政府に関与し続けます。
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