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【由利公正】
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銀座煉瓦街の父でもある
由利は、版籍奉還の際に福井藩政に参与し、明治3年(1871年)には東京府知事に就任。
岩倉使節団にも随行し、欧米を視察しています。
実はトラブル続きで非難された岩倉使節団 1年10ヶ月の視察で成果は?
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府知事が長く外遊するなと批判を受けながら、それと引き換えに由利は貴重な知識を得ました。
「銀座の大通りを、ニューヨークやロンドンの目抜き通り並に45.5m幅に拡張すべし」
当時は馬車全盛期です。
馬車同士がすれ違えるほどの通りにしたいと考えたのですね。
予算のため27.3mに落ち着いたものの、銀座は煉瓦街とされ、燃えない西洋式建物が並びました。
明治を代表する街になったその背後に、由利の尽力があったのです。
ただ、皮肉なことに、政治家としての由利はだんだんと疎まれていきます。
薩長土肥、特に前二者の政府壟断(ろうだん・独占すること)が厳しくなり、福井藩出身の由利は居場所を失ったのです。
政府からはじかれた由利は、同じ境遇となった板垣退助(土佐藩出身)や江藤新平(佐賀藩出身)らと共に、明治7年(1874年)、政府に対して「民撰議院設立建白書」を提出します。
薩長閥からすれば、鬱陶しい話です。
すると明治8年(1875年)には元老院議官に任命され、明治20年(1887年)には子爵に叙せられました。
明治23年(1890年)には貴族院議員、麝香間祗候(じゃこうのましこう)となっております。
どれも華麗な経歴ですが、政府のありように口を出せる役職とは言いがたいものです。
長寿ながら悔やまれるその才覚……
明治27年(1894年)には、京都にて「有隣生命保険会社」(1943年現在の明治生命と合併し終焉)の初代社長に就任。
これまた一見成功したかのような経歴ですが、政府からはほど遠いものです。
そして明治42年(1909年)4月28日――脳溢血により、東京市芝区高輪の自宅で亡くなりました。
享年81。
当時としては異例の長命といえます。
晩年の由利は経済官僚よりも「幕末維新、戊辰戦争当時を知る老人」扱いで、史談会等に引っ張りだこでした。
それにしても……明治末期まで天寿を全うしながらも、こうも惜しいと言いたくなる人物もそうそうおりません。
こんな秀才が、経済官僚として全うできないなんて。
やはり、明治政府の薩長閥壟断が悔やまれます。
なぜもっと財経に注力しなかったのか。
幕末明治の金融マンとして、由利公正はもっと評価されるべきではないでしょうか。
幕末明治の福井藩そのものが逸材の宝庫でした。
そのことを、もっと知られて欲しいものです。
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※福井150年博(→link)
文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
三上一夫・舟澤茂樹『由利公正のすべて』(→amazon)
一坂太郎『明治維新とは何だったのか』(→amazon)
半藤一利『幕末史』(→amazon)
『国史大辞典』