特に、四字熟語のような文字が続けて並ぶと最悪。
【版籍奉還】だの
【廃藩置県】だの
【地租改正】だの……。
よくも同時期に繰り出してくれたもんです。
いずれも江戸時代の封建制度から近代国家へ進むために必要だったとはいえ、できれば一度で済ませられなかったんスかね……。
関係性や時間軸からすると
版籍奉還(1869年)
↓
廃藩置県(1871年)
↓
地租改正(1873年)
の順に見ていくのがわかりやすいでしょうか。
というわけで、まずは明治2年(1869年)6月17日に勅許された版籍奉還の内容から見てみましょう。
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版籍奉還とは?
まずこの言葉の意味は、
「各地の藩に属している領地と領民を天皇に返す」
ということです。
受験生の方は「版」の書き間違いにご注意ください。
「藩」ではありませんよ。「版」です。
正直、これはトラップとしか思えませんわ~。
発端は戊辰戦争中、新政府の財源として各藩から領地を献上させようとしたことでした。
意外に思えるかもしれませんが、発足当初の明治政府は有力藩の寄り合い状態だったので、あまり資金があるとはいえなかったのです。
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そこでまず長州藩と薩摩藩が自領の一部を献上し、さらに藩財政が危うくなっていた姫路藩が続こうとしました。
これに対し、伊藤博文が「姫路藩の行動はあっぱれなことであり、特別に褒美を出してもいいのでは」と提案。
木戸孝允がこれを聞いて版籍奉還の仕組みを考え、長州・薩摩に同意を求めました。
木戸自身も主君である長州藩主・毛利敬親(たかちか)を説得しています。
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これに肥前藩主・鍋島直大、土佐藩主・山内豊範が同意し、他の藩も版籍奉還を申し出るようになりました。
そして新政府から許可が降り、他の藩にも版籍奉還を命じます。
明治二年(1869年)の旧暦6月ですから、箱館戦争が終わる数日前くらいのことです。
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藩と知事の財産を切り離した
これまたややこしいのが、「版籍奉還によって藩主たちがみんなクビになったわけではない」ことです。
中央政府でさえまだ完全でないのに、地方統治などがいわずもがな。
そのため、藩主だった者を改めて「藩知事」という役職に任命しました。
藩知事の財産は「藩の1/10」とし、藩と知事の財産を切り離したのも大きなポイントです。
江戸時代は、藩主の財産と藩政のための資金は境目がなかったために「藩主のぜいたくのせいで藩財政が火の車」なんて事態が起きました。
それをあらかじめハッキリ分けることで、明治政府は二の舞にならないようにしたのです。
収入をはっきりさせるため、石高や兵数や人口、地図などの調査なども行わせました。
また、それぞれの藩内で武士だった者は基本的に「士族」とし、武家内での身分格差をなくしています。
「格差の是正」というと聞こえが良い話ですが、これによって起きた事件【庚午事変】もあるのがなんとも言えないところ。
廃藩置県とは?
版籍奉還の次に行われたのが、廃藩置県です。
字面から見た印象では、これが一番わかりやすいかもしれませんね。
版籍奉還の後、各行政機関が整えられ、東京・京都・大阪を府とし、残りの政府直轄地を県とすることが決まりました。
これによって各地方は「大名や藩知事による半独立国家」ではなく、「政府によって藩知事が預かっている」という状況が作り出されたわけです。
また、江戸時代中からの窮乏などにより、自ら廃藩を申し出るところもありました。
明治政府はそうした藩を近隣に統合し、整理を進めていきます。これにより、江戸時代は飛び地だった場所などもまとめられました。
それでもこの時点で府72県あり、現代の都道府県よりずっと多かったのです。
※明治21年までに3府43県となり、現在に近い数字になっています
そしてある程度整理が進んだところで、明治天皇から廃藩置県の詔(みことのり)を発し、藩知事を罷免。
全ての藩知事は華族として、東京府に属するようになり、大名時代の地元から切り離されました。
元大名たちが去った後、各府・県には改めて政府から知事が任命されています。
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