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【田中河内介】
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明治天皇の養育係
田中が教育を担当した中山慶子は、聡明な女性に成長しました。
彼女は17歳で典侍御雇となって宮中に出仕。孝明天皇の寵愛を得て、懐妊します。
嘉永5年9月22日(1852年11月3日)、慶子は中山邸において、皇子・祐宮(さちのみや)を出産しました。
後の明治天皇です。
これは大変なことでした。
家禄僅か200石に過ぎない中山家は困窮しており、物売りが家の前を通る時は声をひそめていたほど。
湯や茶すらろくに飲めないほどの状況の中、田中は出産のため、金策に奔走していたのです。
いくら貧しくとも、将来の儲君(ちょくん・皇太子)の誕生です。
・御産殿の土地を借りる
・御産殿を建てる
・安産祈願
こうしたことには、当然、相当な金もかかります。
だったら朝廷から出せばいい、と思いますよね?
その通りです。
確かにある意味では、朝廷は金を出しました。10年年賦で、100両というかたちで……そう、借金なのです。
これも仕方ない話なのです。当時の朝廷は窮乏しており、潤沢な財産はありません。
田中は但馬の実家から金を借りてまで、費用を捻出します。
給料をもらえるどころか、自分の金を出してまでナントカしたのですから、これは大変なことでした。
こうして苦労の末に誕生した祐宮を、田中は熱心に教育しました。
時に背負い『孝経』をくちずさみながら、その成長を見守ったのです。
田中は祐宮御用掛として『類聚国史』の校訂にも携わっています。
そして安政3年(1856年)に宮中に移されるまで、田中は祐宮を大切に育てました。
祐宮は即位して明治天皇となったのちにも、この優しく世話をしてくれた田中のことを、生涯忘れませんでした。
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勤王家として活躍
嘉永6年(1852年)の黒船来航以降、時代は大きく動いておりました。
京都では、尊皇攘夷活動家が多数活動。
そんな中、田中は旧主にあたる中山忠能に様々な献策を行います。
しかし、田中と主君の中山忠能は、次第に意見が対立し始めます。
忠能は、和宮の将軍家降嫁による公武合体策を支持しておりましたが、田中はそのことを容認できなかったのです。
文久元年(1861年)、田中は西遊し、久坂玄瑞、轟武兵衛、真木和泉(保臣)らと親交を深めます。
そして京都に戻ると『安国論』を執筆しました。
幕府はこの著作を危険視し、田中は監視を受けるようになります。
田中はついに中山家を致仕。彼は自宅を「臥竜窟」と名付け、自ら「臥竜」と号しました。
と、同時に、このころから交際範囲も広がります。
国学者の矢野玄道、副島種臣と交流し、西郷隆盛、平野国臣、清河八郎、宮部鼎蔵らと親交を深めたのです。
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幕府の監視が強まり、京都が騒然とする中、田中は長子・瑳磨介とともに薩摩藩邸に身を寄せるようになりました。
薩摩藩士の柴山愛次郎、橋口壮介らとも、田中父子は親しくなりました。
中山忠能とは仲違いしてしまった田中ですが、基本的には人の言葉をよく聞き、背かない、誠実な性格だったのです。
こうした同志と語り合う中、京都の薩摩藩士周辺は、過激な思想に走りつつありました。
田中父子も、その中にいました。
そして文久2年(1862年)。
薩摩の「国父」島津久光がついに動きました。兵を率いて上洛したのです。
時は今、倒幕すべきだ――。
尊皇攘夷派の志士たちはにわかに色めき立ちましたが、肝心の久光と朝廷にそんな気はありません。
有馬新七ら、薩摩の若手を中心とした過激派たち。過激な計画を立てている連中を、断固として止める。
それが彼らの出した答えでした。
寺田屋での事件に巻き込まれ……
文久2年(1862年)4月23日、夜。
久光の命を受けた手練れの鎮撫使8名が寺田屋に踏み込みました。
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そして、田中父子も捕縛します。
捕縛された薩摩藩士は処分を受け、他藩の者はそれぞれの藩に引き渡されました。
問題は、田中一派と、帰国を拒んだ者です。
この6名は“保護”という名の「処刑」処分に決まってしまいます。
二艘の船に分乗した6名は、大阪から出港しました。
「兄の仇!」
船上で、橋口吉之丞がそう叫ぶと、瑳磨介の腹を深く刺しました。
呆然とした瑳磨介の腹から、臓がこぼれおちます。
彼の兄で、田中と親しかった橋口壮介は、寺田屋で死亡。
弟からすれば「おはんが兄を誘ったから、死んでしもた!」ということなのでしょう……。瑳磨介の享年は17でした。
我が子が惨殺される様子を見て、田中は己の死を悟りました。
「さあ、早く殺せ」
そう言うと、胸をはだけ、辞世を詠みます。
ながらへて かわらぬ月を 見るよりも 死してはらわん 世々のうき雲
このとき、久光の密命により殺害を命じられていたのは、柴山龍五郎景綱です。柴山は田中と親しくしており、寺田屋騒動にも居合わせていました。
くじ引きで、この苦渋の役目を引き受けてしまったのです。
「おいには斬れんごっ!」
さしもの薩摩隼人、主君の命令であっても、柴山は苦悩して刀を抜けませんでした。
やむなく、柴山の弟である是枝万助が手を下し、田中は斬殺されました。享年48。
青木も同じ船内で殺害。3人の遺体は、船から海に投げ捨てられます。
田中父子の死体は服をはぎとられ、腕を縛り上げられた状態で発見されます。
父は覚悟しきった表情、子は無念のあまり歯を食いしばった形相で、小豆島に流れ着きました。
青木の死体は、ついに発見されませんでした。
残り3名は、細島港郊外の古島という場所で、大木に縛り付けたうえで斬殺されました。
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