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ビジネス文書に妙な筆跡
近藤らと違い、土方は柔らかくておしゃれな筆跡です。
現代人からすれば綺麗な字ですが、当時からすると「なんだこいつ、変な筆跡だな」となります。実は彼の筆跡は、俳諧サークル特化型のものなのです。
同好の士では受けるおしゃれな書体は、武士がビジネス文書に使うものとしてはおかしいわけです。
皆が明朝体やゴシック体でビジネス文書を書いているのに、土方だけが個性的でやけにシャレオツなフォントを使っているような状態だと思ってください。
「ビジネス文書でそれはないだろ」ってなりますよね? 書いているのは鬼の副長なのに。
先ほど武士デビュー後の土方は俳諧をやめたと書きましたが、全く詠まなかったわけでもないようです。
文久3年(1863)に京都から郷里に送った手紙の中で戯れにこう詠んでいます。
報国の心ころわするゝ婦人哉
京都でモテまくって困るわー。こんだけモテると国のこととかもうどうでもよくなりそうだわー。
って、もちろんジョークなんでしょうけれども、この時期でもまだ撫で肩色白イケメンアパレル店員らしさが残っています。
トシさん、辞世に見られる修練のあと
そんな土方ですが、京都での激動、奥羽での転戦を経て、最期の地函館にたどり着くまでには文学的素養も身につけました。
その証拠が、彼が最期に詠んだ辞世です。
土方の辞世
たとえ身は蝦夷の島根に朽つるとも魂は東(あずま)の君やまもらむ
【訳】たとえこの身が蝦夷の地で散るのだとしても、魂だけでも東の徳川家を守るでしょう
いいですねえ、それっぽいですねえ。
トシさん、すっかり幕臣らしくなって……と改めて涙してしまいます。
多摩でほのぼの系日常を俳諧に詠んでいた青年は、函館の地で雄々しく戦う英雄になりました。
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文久3年(1863年)の上洛から僅か6年間で、彼はここまで変わったのです。
人間というのは変わるものだと言う思いとともに、もしも土方が上洛せずにあのまま多摩で過ごしていたらどんな人生を送っていたのだろう、とも考えてしまいます。
日常を観察し、俳諧を仲間と楽しみ、美男として近所ではちょっと有名。
そんな平凡な青年の人生を、幕末の動乱は変えてしまいました。
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その方が幸せだったかもしれませんが、それでは歴史に名は残せなかったことでしょう。
そう考えると、短い土方の人生そのものが、もはや文学作品のようなものなのかも?と、しんみり。
過酷な歴史は、一人のおしゃれな青年の人生をも磨きあげ、そして雄々しくも哀しい物語に変えたのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
国史大辞典
管宗次『俳遊の人・土方歳三 句と詩歌が語る新選組 PHP新書』(→amazon)