中島三郎助

中島三郎助/wikipediaより引用

幕末・維新

脆弱どころか十分戦えた江戸幕府の海軍~創設の立役者・中島三郎助は箱館に散る

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幕府海軍、始動

もちろん手放しでは喜べません。

「鳳凰丸」も「エダ号」も所詮は輸送船ではないか、とも言えるわけで。

戦う船を作り、それを操縦する人を養成するためには、海軍がやっぱり必要となるわけです。

むろん、いきなり「海軍を作るぞ!」と簡単には進みません。

幕府はまず、オランダに相談しました。

ここで、岩瀬忠震にアドバイスをした親切なオランダ人・ファビウス船将が出てきます。

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「いいですね! オランダから人員を派遣しましょう」

学ぶとなれば留学か、招聘か。

迷った末に、幕府は後者を選びました。

親切なオランダの助けを借り、当初は浦賀で訓練をすることも検討されました。

しかし、江戸に近すぎるといった点も考慮され、長崎に決定。

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さらには【築地海軍操練所】もできあがります。

咸臨丸での航海は、幕府海軍の成果確認の意味もあったわけですね。

職制も変更されました。

新設の役職にはこんなものがあります。

・軍艦奉行
・軍艦頭取
・軍艦組

幕府のみならず、諸藩でも蒸気船開発、購入の動きが進んでゆきます。

 


「海軍がまるごと残っているでしょ!」

問題はここからです。

結局、幕府の海軍ってどうなったのか?

勝海舟が海軍伝習所作って(中島三郎助はその一期生になり)、咸臨丸で海を渡って……というところまでは「あぁ、なんとなく思い出せる」という方も多いかもしれません。

長崎海軍伝習所坂本竜馬たちが学んだと思っていたら、いつの間にか榎本武揚が函館で負けていたぜ!」

これぐらいの認識ではないでしょうか?

陸上の政治闘争が過熱し、特に京都に集中。

海の存在感が希薄になり、戊辰戦争でも際立った活躍は見えない。

要は、特に意味の無いカード扱いだったんですよね。

これは海軍が無能というよりも、幕府がむざむざ絶好のカードを捨てた感があります。

鳥羽伏見の敗戦から逃げ帰ってきた徳川慶喜に対し、勝海舟は

「何をしているんですか! 海軍がまるごと残っているでしょ!」

と全力で突っ込んだわけです。

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慶喜が本気で戦う気があれば、海軍はかなり利用できたはずでした。

幕府関係者は結構な頻度で軍艦を使って移動しています。

浦賀の軍港化、製鉄所の建造も進んでいて、つまり幕府の敗因は、戦わずして逃亡した徳川慶喜のせいと言えるでしょう。

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