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【中島三郎助】
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幕府海軍、始動
もちろん手放しでは喜べません。
「鳳凰丸」も「エダ号」も所詮は輸送船ではないか、とも言えるわけで。
戦う船を作り、それを操縦する人を養成するためには、海軍がやっぱり必要となるわけです。
むろん、いきなり「海軍を作るぞ!」と簡単には進みません。
幕府はまず、オランダに相談しました。
ここで、岩瀬忠震にアドバイスをした親切なオランダ人・ファビウス船将が出てきます。
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「いいですね! オランダから人員を派遣しましょう」
学ぶとなれば留学か、招聘か。
迷った末に、幕府は後者を選びました。
親切なオランダの助けを借り、当初は浦賀で訓練をすることも検討されました。
しかし、江戸に近すぎるといった点も考慮され、長崎に決定。
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さらには【築地海軍操練所】もできあがります。
咸臨丸での航海は、幕府海軍の成果確認の意味もあったわけですね。
職制も変更されました。
新設の役職にはこんなものがあります。
・軍艦奉行
・軍艦頭取
・軍艦組
幕府のみならず、諸藩でも蒸気船開発、購入の動きが進んでゆきます。
「海軍がまるごと残っているでしょ!」
問題はここからです。
結局、幕府の海軍ってどうなったのか?
勝海舟が海軍伝習所作って(中島三郎助はその一期生になり)、咸臨丸で海を渡って……というところまでは「あぁ、なんとなく思い出せる」という方も多いかもしれません。
「長崎海軍伝習所で坂本竜馬たちが学んだと思っていたら、いつの間にか榎本武揚が函館で負けていたぜ!」
これぐらいの認識ではないでしょうか?
陸上の政治闘争が過熱し、特に京都に集中。
海の存在感が希薄になり、戊辰戦争でも際立った活躍は見えない。
要は、特に意味の無いカード扱いだったんですよね。
これは海軍が無能というよりも、幕府がむざむざ絶好のカードを捨てた感があります。
鳥羽伏見の敗戦から逃げ帰ってきた徳川慶喜に対し、勝海舟は
「何をしているんですか! 海軍がまるごと残っているでしょ!」
と全力で突っ込んだわけです。
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慶喜が本気で戦う気があれば、海軍はかなり利用できたはずでした。
幕府関係者は結構な頻度で軍艦を使って移動しています。
浦賀の軍港化、製鉄所の建造も進んでいて、つまり幕府の敗因は、戦わずして逃亡した徳川慶喜のせいと言えるでしょう。
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