原田左之助

幕末・維新

新選組十番隊組長・原田左之助~幕末をひたむきに生きた青年剣士29年の生涯

漫画『るろうに剣心』で、主人公・緋村剣心と共に戦う人物がいます。

相楽左之助――。

明るく漢気にあふれた彼の名前、幕末に生きて散った二人の人物から取られていました。

◆相楽総三(赤報隊長)

原田左之助(新選組・十番隊組長)

近藤勇土方歳三沖田総司などの幹部でもなく、永倉新八斎藤一のように明治を生き抜いたわけでもない。

それでも「馬賊になった」という伝説があるほど人気者だった快男児・原田左之助。

本稿では、慶応4年(1868年)5月17日が命日である原田左之助に注目してみたいと思います。

 

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左之助は苦み走ったいい男

原田左之助といえば、トレードマークがあります。

それは腹部に走る横一文字の傷痕(きずあと)。

要は、切腹未遂による痕でした。

現代人からすれば、一体何なのかと不思議に思えるかもしれません。

しかし、時代は江戸です。

梅毒が「花柳病(=遊郭で罹る遊び人の病気)」とされるような価値観があり、切腹の痕も、こんな風に褒められるものでした。

「すげえじゃねえか! あいつァ、生きるか死ぬかの喧嘩をするほど鉄火肌ってことでぇ」

江戸っ子の鉄火肌。人情。オラつき。

火事と喧嘩が華であり、火消しに喝采を送る庶民にとっては、むしろ大絶賛する傷跡だったのです(以下は江戸の大親分・新門辰五郎に関する記事となります)。

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腹部の傷がアピールできるのは、当時の服飾事情も影響しております。

ご存知の通り、江戸は高温多湿です。

露出が高く、過ごしやすさを求めた江戸っ子の知恵でした。

例えば当時の写真をご覧いただくと、次のような様子が見てとれます。

・幕臣や旗本、武家の奥方であっても、着付けはかなりゆるい

・乳房がいやらしいという意識が希薄であることもあり、女性だろうとギリギリ限界まで胸元をはだける

・飛脚、職人、足軽ともなれば、夏場や労働時は褌一丁でも問題なし!

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現代人にとって、夏場の無駄毛処理といえば女性の手足や脇の下のものというイメージがあります。

江戸時代はそうではありません。

モテを気にする男性は、尻の割れ目周辺の無駄毛処理に気を使っていました。

当時の下着は褌(ふんどし)。

裾をはだけるにせよ、褌だけで歩くにせよ、無駄毛があればこうなります。

「キモっ! 褌で歩く江戸っ子なのに、無駄毛ボーボーとかありえなくない?」

イケてる男は尻まで気遣う必要があったんですねー。

はい、江戸っ子の無駄毛処理事情はこのへんまでとしまして、原田の傷痕。

腹部まであらわにした足軽中間で、腹部にうっすらと切腹のあと……これがどんだけイケてるか!

「マジで? マジでやばくない? 見た目だけでなくて漢気まであふれているとかすごくね!!」

江戸の娘がうっとりする。男だってお友達になりたい。

そんな無茶苦茶かっこいい存在――それが原田左之助でした。

原田左之助は、容貌についてこう言われております。

「苦み走ったいい男でねえ……」

今となっては「小股の切れ上がったいい女」と並ぶ謎めいた表現ですが、ともかく以下のような評判でした。

・シブい、凛々しい、美形である

・無口でとっつきにくいようで、慣れてくると人情味がある

・なんか頼りがいがありそう

映像表現ですと、東映仁侠もの、ヤクザ路線でしょうか。

鶴田浩二さん、高倉健さん、菅原文太さんあたりが典型例とされております。

 

史実でもハンサムでとにかくモテる。俳句も好きで、アパレル店員だったこともあった――典型的なイケメン・土方歳三。

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フィクションにおける沖田総司のような、儚げな美青年路線。

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そんな二人とはタイプが違い、シブくてイケてる男。

本稿では原田左之助の生涯を見ていきます。

 


松山藩の足軽

原田左之助は天保11年(1840年)、松山藩の城下・矢矧町(現・松山市緑町)で生まれました。

新選組で仲が良かった永倉新八のひとつ歳下。諱は忠一と言います。

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身分は中間――武家の身分でも最下層の足軽でした。

大名行列で槍を捧げ持ち、挟み箱(長柄つきの箱)を運んでいる姿をご想像ください。

 

左之助は安政2年(1855年)、江戸三田藩屋敷で小使として働くこととなりました。

帰国して若党をつとめたこともありますが、気が荒かったのか、その3年後の安政5年前後には出奔。このとき、止めようとした相手の武士と揉めております。

どうやら相手は、こういう挑発をしたようです。

「腹の切り方も知らぬ下劣な輩めが」

そこで原田は「切腹の作法くらい知っている」とばかりに、腹を切ってアピールしたのでした。

腹部をかっさばいて死ぬとなるとなかなか難易度が高く、そのため介錯人がいるわけですが、だからといっていきなりやらかすのは相当のものです。

前述の通り、これが切腹の痕として残り、カッコいいアピールポイントになったのですから、当時の感性は興味深いものがあります。

「俺の腹は金物の味ってもんを知ってんのよ。“死に損ね左之助”たぁ俺のことよ」

「マジパネエな……左之助はよぉ!」

と、こうなったわけですね。

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