漫画『るろうに剣心』で、主人公・緋村剣心と共に戦う人物がいます。
相楽左之助――。
明るく漢気にあふれた彼の名前、幕末に生きて散った二人の人物から取られていました。
近藤勇や土方歳三、沖田総司などの幹部でもなく、永倉新八や斎藤一のように明治を生き抜いたわけでもない。
それでも「馬賊になった」という伝説があるほど人気者だった快男児・原田左之助。
本稿では、慶応4年(1868年)5月17日が命日である原田左之助に注目してみたいと思います。
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左之助は苦み走ったいい男
原田左之助といえば、トレードマークがあります。
それは腹部に走る横一文字の傷痕(きずあと)。
要は、切腹未遂による痕でした。
現代人からすれば、一体何なのかと不思議に思えるかもしれません。
しかし、時代は江戸です。
梅毒が「花柳病(=遊郭で罹る遊び人の病気)」とされるような価値観があり、切腹の痕も、こんな風に褒められるものでした。
「すげえじゃねえか! あいつァ、生きるか死ぬかの喧嘩をするほど鉄火肌ってことでぇ」
江戸っ子の鉄火肌。人情。オラつき。
火事と喧嘩が華であり、火消しに喝采を送る庶民にとっては、むしろ大絶賛する傷跡だったのです(以下は江戸の大親分・新門辰五郎に関する記事となります)。
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腹部の傷がアピールできるのは、当時の服飾事情も影響しております。
ご存知の通り、江戸は高温多湿です。
露出が高く、過ごしやすさを求めた江戸っ子の知恵でした。
例えば当時の写真をご覧いただくと、次のような様子が見てとれます。
・幕臣や旗本、武家の奥方であっても、着付けはかなりゆるい
・乳房がいやらしいという意識が希薄であることもあり、女性だろうとギリギリ限界まで胸元をはだける
・飛脚、職人、足軽ともなれば、夏場や労働時は褌一丁でも問題なし!
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現代人にとって、夏場の無駄毛処理といえば女性の手足や脇の下のものというイメージがあります。
江戸時代はそうではありません。
モテを気にする男性は、尻の割れ目周辺の無駄毛処理に気を使っていました。
当時の下着は褌(ふんどし)。
裾をはだけるにせよ、褌だけで歩くにせよ、無駄毛があればこうなります。
「キモっ! 褌で歩く江戸っ子なのに、無駄毛ボーボーとかありえなくない?」
イケてる男は尻まで気遣う必要があったんですねー。
はい、江戸っ子の無駄毛処理事情はこのへんまでとしまして、原田の傷痕。
腹部まであらわにした足軽中間で、腹部にうっすらと切腹のあと……これがどんだけイケてるか!
「マジで? マジでやばくない? 見た目だけでなくて漢気まであふれているとかすごくね!!」
江戸の娘がうっとりする。男だってお友達になりたい。
そんな無茶苦茶かっこいい存在――それが原田左之助でした。
原田左之助は、容貌についてこう言われております。
「苦み走ったいい男でねえ……」
今となっては「小股の切れ上がったいい女」と並ぶ謎めいた表現ですが、ともかく以下のような評判でした。
・シブい、凛々しい、美形である
・無口でとっつきにくいようで、慣れてくると人情味がある
・なんか頼りがいがありそう
映像表現ですと、東映仁侠もの、ヤクザ路線でしょうか。
鶴田浩二さん、高倉健さん、菅原文太さんあたりが典型例とされております。
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そんな二人とはタイプが違い、シブくてイケてる男。
本稿では原田左之助の生涯を見ていきます。
松山藩の足軽
原田左之助は天保11年(1840年)、松山藩の城下・矢矧町(現・松山市緑町)で生まれました。
新選組で仲が良かった永倉新八のひとつ歳下。諱は忠一と言います。
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身分は中間――武家の身分でも最下層の足軽でした。
大名行列で槍を捧げ持ち、挟み箱(長柄つきの箱)を運んでいる姿をご想像ください。
左之助は安政2年(1855年)、江戸三田藩屋敷で小使として働くこととなりました。
帰国して若党をつとめたこともありますが、気が荒かったのか、その3年後の安政5年前後には出奔。このとき、止めようとした相手の武士と揉めております。
どうやら相手は、こういう挑発をしたようです。
「腹の切り方も知らぬ下劣な輩めが」
そこで原田は「切腹の作法くらい知っている」とばかりに、腹を切ってアピールしたのでした。
腹部をかっさばいて死ぬとなるとなかなか難易度が高く、そのため介錯人がいるわけですが、だからといっていきなりやらかすのは相当のものです。
前述の通り、これが切腹の痕として残り、カッコいいアピールポイントになったのですから、当時の感性は興味深いものがあります。
「俺の腹は金物の味ってもんを知ってんのよ。“死に損ね左之助”たぁ俺のことよ」
「マジパネエな……左之助はよぉ!」
と、こうなったわけですね。
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