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【雲行丸】
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そして国産蒸気船「雲行丸」誕生
安政2年(1855年)。
万次郎から聞いた技術を元に、薩摩藩は日本初となる蒸気船「雲行丸(うんこうまる)」を完成させました。
同年6月9日に試運転を成功させたのです。
それが上掲の画像図ですね。
お世辞にも完成度が高かったとは言いかねる雲行丸。
しかし万次郎から聞いた情報だけを頼りに作ったわけですから、たいしたものです。
さすがは斉彬、さすがは薩摩藩でしょう。
「こんな原始的な図面から蒸気機関を作るなんて、凄い」
オランダ人の海軍人であるカッテンディーケも驚きました。
その後、雲行丸は軍事用ではなく、輸送船や連絡船としてしばらく運用されました。
薩摩藩の造船事業は赤字であり、結果的に輸入するほうが安上がりだと判明したため、取り止めとなってしまうのです。
その後、藩は蒸気船を輸入する方針に切り替えました。
とはいえ、まったくの無意味であったとは言えないわけでして。
性能があまり高くなかった雲行丸は、維新後に時代遅れとなり、廃船となりました。明治20年代にはスクラップとなり、絵図面も写真も残っていません。
それでも日本の歴史に残る記念すべき事業であったといえるでしょう。
ドラマでは「ラブ」推しでしたが、蒸気船に注目しておいた方がジョン万次郎的には嬉しかったと思いますが……。
万次郎、ふたたび薩摩へ
滞在のあと、万次郎は長崎奉行に引き渡されます。
そこで拘束された後、故郷の土佐藩へ。その後は幕臣として活躍します。
では薩摩藩とは、もう縁が切れたのか? と申しますと、そうではありません。
元治元年(1864年)、薩摩藩は幕府に対して、3年間の期限付きで万次郎を貸して欲しいと頼み込んでいます。
この前年、薩摩藩では「長崎丸」を長州藩による砲撃で失っていました。損害は長崎丸だけにととまらず、乗船していた貴重な航海仕たちをも失ってしまったのです。
薩摩藩にとって、航海術に長けた者を養成することは急務でした。
薩摩藩は同年、洋学校「開成所」を設立。
そこは、英語、オランダ語といった語学だけではなく、海陸軍砲術、兵法、数学、物理、医学、地理、天文学、測量術、航海術……様々な学問を学ぶことができる、実践的な場所でした。
万次郎はここで教鞭を執ったのです。
多くの薩摩藩士がここで学び、海外に留学した者もいました。
万次郎は、幕臣でありながら薩摩藩躍進の貢献者ともいえるのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
桐野作人『さつま人国誌 幕末・明治編3』(→amazon)
泉秀樹『幕末維新人物事典』(→amazon)
『国史大辞典』