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【平岡円四郎】
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安政の大獄
一橋派の奮闘叶わず慶喜の将軍就任は果たされませんでした。
当時の大老(幕府の将軍に次ぐ最高権力者)・井伊直弼が、紀州藩主の徳川慶福を次期将軍に内定させ、その上で慶喜を支持した「一橋派」を弾圧。
後世で【安政の大獄(1858~1859年)】と呼ばれる事態を引き起こします。
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当然ながら当事者の慶喜・円四郎も処罰の対象になり、
・慶喜は謹慎処分
・円四郎は慶喜から引き離され、甲府に左遷
と、苦難の時を過ごすこととなりました。
慶喜の謹慎処分が解けたのは、約3年後の文久2年(1862年)。
政情の悪化が歴然としてきた京都において、将軍後見職に命じられました。
しかし、円四郎はまだ側に置くことができず「平岡はまだ甲府から戻らぬか」としきりに尋ねたといいます。
彼が再び一橋家に仕えたのは、翌文久3年のことでした。
と、即座に側近としての地位を回復し、慶喜のブレーンとして活躍を再開します。
当時京都にいた慶喜は公武合体派の中心人物として存在感を強めており、その裏には円四郎の暗躍がありました。
江戸で渋沢と知り合ったが
慶喜に見込まれ、大出世を果たした平岡円四郎。
自身も、後に「日本資本主義の父」と呼ばれる男を取り立てています。
言うまでもなく、渋沢栄一ですね。
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栄一は農家の生まれでありながら、武士への憧れも抱いていて、たびたび江戸へ上京。
その際、江戸で円四郎と出会い、二人はお互いの聡明さを知ったとされます。
円四郎は栄一たちに一橋家仕官の誘いをかけました。
このころ栄一は円四郎のことを
「一を聞いて十を知る質で、客が来ると顔色を見ただけで用事を察するほどだった」
と高く評価しています。
しかし若かりし栄一は、円四郎と対極ともいえる「尊王攘夷」の思想を強めておりました。
思想を強めるだけでなく、尾高惇忠や渋沢成一郎らと共に横浜の焼き討ち計画まで立てるのです。
準備は着々と進みましたが、惇忠の弟である長七郎の猛反対によって計画は中止。
栄一は故郷にいると仲間の密告によって身が危ないと判断し、成一郎とともに京都へ逃亡しました。
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