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【村岡局(津崎矩子)】
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近衛家の清少納言と讃えられるも
安政の大獄で捕らえられた2名の女性。
その一人目は黒澤止幾(くろさわ とき)でした。
徳川斉昭の無実を証明するために朝廷に長歌を献上し、逮捕され、「中追放」処分となりました。
そして二人目が、村岡です。
彼女は止幾とは比べものにならないほど、重要な役割を果たした女性と目されていました。
なにせ大獄で死罪となった梅田雲浜は、村岡を「近衛家の清少納言」と讃え、懇意にしていたほどです。
彼女が近衛家代表として立ち回っていたのでしょう。大獄の処罰対象となった近衛家の人間は村岡一人でした。
とはいえ、村岡の訊問にあたる者は、あまりよい気分ではなかったでしょう。
村岡は、当時古希(70才)を越えた老女。
近衛家側でも、年老いた村岡の訊問は不憫であるゆえ、別の者でと願いましたが、幕府に却下されてしまいます。
村岡の訊問と快適な押込ライフ
村岡は厳しい訊問を受けながら、あくまでシラを切り通しました。
自分は近衛家の取り次ぎに過ぎず、計画や工作の内容は知らない、と。
幕府側としても、彼女がそこまで危険思想を持っているとは考えていなかったでしょう。
ただし、村岡は沈黙を守り通したわけではありませんでした。
彼女の証言を証拠として、主人である近衛忠煕が辞官・落飾という処分を受けたのです。
一方、村岡自身は「押込」30日という処分となりました。
自宅軟禁のような処置ですが、彼女の場合はかなり寛大な扱いです。
その背景には、篤姫の尽力があったとされています。
衣食、入浴も村岡の望むままで、彼女は来客も迎えることができました。
こうして村岡は、悠々自適な押込ライフをエンジョイしたのでした。
押込が終わると放免され、郷里である北嵯峨の「祥鳳山直指庵」で余生を過ごしました。
浄土宗の寺院であり、晩年は「嵯峨の慈母」と称されたとか。
「勤王女傑」の最期
村岡は、前述の通り明治6年(1873年)8月23日に世を去りました。
享年88。
かなりの長寿でした。
天皇家と主家近衛家のために働くうちに、「安政の大獄」に巻き込まれてしまった彼女は、訊問通り、ただ取り次ぎをテキパキとこなしていたのか。
それとも大きな志のもとで動いていたのか。
その点はよくわかりません。
晩年の穏やかな人物像は、勇ましい呼び名「勤王女傑」とは少々ギャップがある気もしますね。
いずれにせよ、西郷隆盛や篤姫から信頼された女性であったというのは確かです。
幕末というのは、熱い心を持った男たちだけではなく、切れ者の女性も活躍できたのです。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考文献】
辻ミチ子『女たちの幕末京都 (中公新書)』(→amazon)