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【吉田松陰】
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記念すべき初「猛挙」は脱藩だった
長崎で外国を知った青年松陰は、その胸にカッと炎を燃やしました。
「こねえな大変な時代だ。ぼくは様々な場所を訪れ、見聞を広めたい。この国のために何ができるのか、考えにゃあいけんのじゃ!」
思い立った松陰は、嘉永4年(1851年)に江戸で遊学。しかし、考えていたような指導は受けられず、物足りなさを感じてしまいます。
そんな中、日本をしばしば来航するロシアの存在を知った松陰は、東北旅行をしてみたいと熱望します。
あまり着目されませんが、当時、日本には何度も異国船が来ていました。
危険度ランキングは、ザッとこんな感じでしょう。
外国危険度ランキング
松陰は早速、東北旅行をしようとして、熊本藩士・宮部鼎蔵に誘いをかけます。
しかし、ここでトラブルが発生するのです。
藩主・敬親もホトホト困り果てながら
当時、藩では通行許可証、つまりパスポートのような「過書」という書類を発行しておりまして。これを持ち歩かずに旅行をするのは、脱藩行為とみなされても仕方ないものでした。
江戸の松陰は、この「過書」発行を依頼するのですが……。
「発行を待っちょったら、宮部君との約束に間に合わんじゃないか!」と、「過書」を持たずに旅行に出立します。
「宮部君、すまんが発行があるけぇちいと延期できんじゃろうか」
「宮部君、すまんが先に出立してくれ」
そんな選択肢だってあろうに、出発してしまう。
このあたり非常に不可解なのですが、私なりに考えてみますと……。
「“過書”という手続きは、所詮藩なり幕府の都合じゃ。自分は見聞を深めて、日本をよりようするために旅に出るんじゃ。日本>>>>>藩or幕府じゃ!」
なんてあたりかなあ、と思ったりします。まぁ、松陰という人物は、常識で考えてしまうとワケがわからなくなってしまうのですが。
ともかく、動機はどうあれ、あまりにカジュアルに脱藩してしまった松陰。藩主の敬親も、これにはホトホト困ったようです。
部下の言うことに対して何でも「そうせい、そうせい」とGOサインを出すがゆえに「そうせい侯」なんてアダ名もある敬親ですが、松陰への甘さを見ていると、幼い頃から成長を見守ってきたという思いがあるのかもしれません。
現代でも、ジュニア時代から応援してきたアスリートや、子役から見てきた俳優を見て、「おっ、泣き虫だったこの選手が、こんなに立派になっちゃって」なんて思ったりしますよね。そういう気持ちがあるのかもしれません。
なにせ長州藩における藩主と松下村塾出身藩士の関係は、なかなか独特というか、甘さを感じます。
薩摩藩の島津久光が、精忠組出身者をコントロール下に置こうとしたものとは対称的。どちらがよいのか悪いのか、一概には言えませんが。
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敬親としても、いくらなんでも松陰だけお目こぼしするわけにもいけません。
家禄を没収し、父親の監視下における「育(はぐくみ)」という処分を受けました。
10年間は遊歴してもいいよ、見聞を広めておいで、と許可を与えてくれたのです。海よりも深い優しさじゃないですか。
ちなみに「松陰」とは号なのですが、彼にはもうひとつ号があります。
「二十一回猛士」
意味は「二十一回猛挙(すごい行為、ルール違反、破天荒なこと)を行う」というものです。
その記念すべき初猛挙が、この脱藩ですからね。やはり常人には計り知れない人物です。
黒船来航と、さらなる「猛挙」
嘉永6年(1854年)、黒船が来航。当時、江戸遊学中だった松陰は、当然ながらショックを受けます。
そして浪人という立場ながら、
『将及私言』
『急務状議』
という意見書を藩に提出したのです。
中身は、幕府批判。攘夷しろ(=外国船を武力で打ち払え)という内容でした。
取り次ぎを願った者の配慮で、匿名で差しだされましたが、すぐに松陰の仕業だと判明します。
「浪人の分際でけしからん奴じゃ!」
藩内から批判された松陰は、江戸の藩邸に出入り禁止とされてしまいました。二度目の「猛挙」です。
松陰が一生懸命なのはよくわかります。
しかし、このあたりの話は、すでに幕府で何度も揉まれて終わったもの。トップクラスの閣僚で議論を重ね、国際情勢やオランダ人の助言を分析、無謀な攘夷こそが国を危険に導くという結論だったのです。
萩から出てきた若年の松陰と、閣僚や西洋の知識がある幕僚の集団では、差があるのは当然といえましょう。
ポータハン号に「どうか連れて行きなさんせ!」
一方そのころ、松陰の師匠である佐久間象山はある計画を練っていました。
これからの時代、西洋について学ばねばならない。
そのためには留学生を派遣したが、許可が下りない。
そうだ、弟子の吉田松陰を密航させよう――というものです。
松陰は江戸を発つと、長崎に停泊中のロシア艦を目指しました。
しかし時既に遅く、出立したあと。仕方なく宮部鼎蔵と共にペリーを暗殺計画を練ったものの断念します。
それが可能であったかはさておき、もしも成功したら日米関係は最悪の方向に進んだでしょう。
そして安政元年(1854年)。
松陰は長州藩の下級武士である金子重之助とともに、小舟に乗ってポーハタン号へと近づきました。
「あんたたちの国で学びたい、どうか連れて行きなさんせ!」
熱意を込めて語るものの、アメリカ側に断られてしまいます。しかし、松陰ら二人の熱意と知識欲に対し、彼らも大いに感銘を受けたのでした。
望みを断たれて戻った松陰らは、北町奉行で取り調べを受け、伝馬町の牢獄に送られてしまうのです。
これが三度目の「猛挙」。
このとき松陰はこう詠んでいます。
かくすれば かくなるものと しりながら やむにやまれぬ 大和魂
【意訳】こねえなんをすりゃあ、こねえな結果になると知ってはいるのだが、ぼくの大和魂は止められんのじゃ
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