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【吉田松陰】
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野山獄から「松下村塾」へ
松陰は、連坐して捕縛された佐久間象山と共に、自藩幽閉の処分となり萩へ移され、野山獄に収容されます。
安政元年(1855年)11月からの獄中生活では、読書と思索に没頭。入獄の半年後には、囚人たちの間で読書会が組織されました。
このときの『孟子』講義をもとに、主著『講孟余話』が生まれたのです。
講義を通して獄内の風紀は向上し、藩側としてはこのことに驚きました。約一年に及ぶ獄囚生活は、決して無駄にはなりませんでした。
藩は松陰の才能を認め、安政2年(1856年)末、病気保養を理由として、実家の杉家に戻すことにします。
松陰は自宅の狭い一室に閉じこもり、ここでおとなしく自学自習に励もうとしました。
そこへ父と兄がやって来ます。
「お前が獄中で行った『孟子』の講義録を読んだ。たいしたもんじゃ。これを完成させんのは惜しい。どうだ、自宅でも講義を続けてみんか?」
二人はそう言って、松陰に『孟子』の講義を委託。吉田松陰による「松下村塾」が始まりました
以後、幕命により江戸に召喚されるまでの2年半、松陰は実質的な主宰者として後輩の育成指導に当たります。
ここで注意したいのは、松下村塾を始めたのは彼ではない、ということでしょう。
創始者は玉木文之進です。
「あれっ?」と思った方、おりませんか。もっと長期間じゃないの? そんなに短いの? という印象ですよね。
実は、松陰の弟子たちはそれだけの短期間しか、指導を受けていないのです。
確かに彼は教育者でありますし、現在においてもその部分が大きくクローズアップされます。
が、実際には遊学、活動家としての歳月の方が長いのでした。
気鋭の「松下村塾」若者たち
松陰の主宰する「松下村塾」には、続々と優秀な若者が集まり始めました。
神童の誉れ高く、元は「明倫館」の教授です。しかも、アメリカ船相手に密航を失敗した松陰は、萩ではちょっとした有名人であったのでしょう。
これが錚々たるメンバーでして。
・高杉晋作
・久坂玄瑞
・吉田稔麿
・入江杉蔵
・野村靖
・久保清太郎
・前原一誠
・伊藤博文
「松下村塾」は、表向き『孟子』を講義する漢学塾ですが、この時勢で昔ながらの学問だけでは追いつけません。
そこで、国の行く末に危機感を抱く、松陰自身の強い実学指向のもと、当時の世界情勢や国の実情について考え、討論する、熱血トークが特徴の場でした。
そういう意味では政治結社的な部分もあったわけです。
薩摩で言えば、大久保利通が主導した精忠組が近い存在でしょうか。
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「松下村塾」の指導は、もはや伝説的とも言えます。
塾生たちも、松陰のひたむきさに感銘を受けるばかりでした。
手を洗っても拭くのは服の袖。髪を結うのは二ヶ月に一度。学問の情熱に賭けていて、眠気が襲えば夏ならば袖まくりして蚊に刺され、冬ならば裸足で庭に降りて走りました。
口調は激しく言葉が激烈なものの、仕草は優しく、ある時は塾生を驚かせ、ある時は塾生を大いに笑わせました。
エピソードにも事欠きません。
ただし、身分についての話には注意が必要です。
確かに士分以外も塾生はいましたが、割合としては2割以下。8割以上が士分です。
松陰はじめ、弟子である高杉や久坂も、武士階級こそが民を率いて国難に立ち向かうべき、という考え方でした。
「奇兵隊」には武士階級以外も参加していますが、人数不足を補うためであり、平等思想に基づくものではありません。
未来を憂い、国を率いる士分の若者を育てる場。
それが「松下村塾」でした。
安政5年、政治改革への期待感と挫折
前述の通り、松陰の目指した目標は「二十一回猛士」です。
人生で「二十一回の猛挙(すごい行為、ルール違反、破天荒なこと)」を行うこと。そんな過激な師の言動に、次第に塾生たちも困惑するようになりました。
安政5年(1858年)、幕府はとんでもない失策を犯しました。
「日米修好通商条約」の勅許を得るため調停工作を行い、失敗していたのです。
尊王攘夷派と呼ばれる人々は、幕府の要求が突っぱねられたことに快哉を叫びました。
彼らはこの揉め事が、どういう結果をもたらすのか。おそらく理解していなかったことでしょう。
勅許を得ることに失敗した老中・堀田正睦は失脚。
代わって幕府の大老・井伊直弼が権勢を握ります。
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彼はこの困難な難局を乗りきるため、剛腕を発揮します。
まず許せなかったのは、勅許工作の間隙をぬって水戸藩に下された「戊午の密勅」です。内容は倒幕をそそのかすものであり、井伊とすれば見逃せるワケがありません。
その背後に、一橋慶喜を推していた「一橋派」の暗躍があると睨んだ井伊は、ただですまそうとは思っていません。
一橋派を退け、徳川慶福(のちの徳川家茂)を将軍後継者に指名。勅許を得ずに開国へと踏み切ります。
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こうした政治の動きに、松陰は絶望してしまいます。彼は開国に反対し、一橋派こそ、幕政を改革する正義の一派であると確信していたのです。
思い詰めた松陰は、だんだんと過激な言動を行うようになります。
周囲の者は、そんな松陰に困惑する他ありませんでした。
老中暗殺計画
そんな激動の年の11月。
松陰の耳に、ある噂が飛び込んで来ました。
水戸藩・薩摩藩・越前藩・尾張藩の有志が、井伊直弼暗殺計画を練っているというのです。
この後、井伊が水戸藩・薩摩藩の刺客により殺害されることを考えると、ある程度までは本当の計画です。ただし、越前藩と尾張藩まで加わっていたかどうかは不明。
いずれにせよ松陰は、居ても立ってもいられなくなりました。
当時、井伊と「井伊の赤鬼、間部の青鬼」と並び称されていたのが、老中・間部詮勝。
京都方面で、弾圧の指揮を執っていたこの間部を暗殺しようと考えたのです。
「ぼくらが勤王の一番槍とならにゃあならん! 有志が井伊の赤鬼を狙うなら、ぼくらは青鬼じゃ!」
松陰は檄を飛ばし、門下生17名の血盟を得ます。
そして、藩の重役・周布政之介(すふ まさのすけ)に願書案分(要するに暗殺計画書)を提出。別の重役の前田孫右衛門には、鉄砲を貸して欲しいと頼み込みました。
さらに門下生には、軍資金の調達、一命を捨ててもよい人(少年でもいいとのこと)、武器の扱いに長けた人を集めるよう依頼を出しております。
藩の上層部に、暗殺協力依頼を出すあたりちょっと理解しにくいですよね……。
でも、これが松陰のやり方なのです。暗殺でも、コソコソとやるのは気に入らない、公明正大でならなければと考えるわけです。
藩上層部も、これには困り果てました。
仕方なく「学術不純にして人心を動揺す(不純な動機で学問をしていて、人々に悪影響を及ぼす)」という理由で、自宅「厳囚」処分を命じます。
それでも塾生が押しかけて危険なため、藩は野山獄に投獄することになったのでした。
とはいえこれも相当甘い処分でして。島津久光あたりなら、もっと厳しい処分を下しそうな気もします。
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