いつの時代も、権力者にはブラックな噂がつきものです。
小説やドラマの世界では格好の題材になったりして、
「◯◯暗殺事件の原因は、本人が過去にこんなことをやっていたせいだ!」
なんて番組、よくありますよね。
日本では本能寺の変、外国だとケネディ大統領暗殺や、ダイアナ妃の事故などが定番。
知名度でいえば劣りますが、江戸時代にもなかなか黒い事情がありそうな出来事がありまして……。
延宝八年(1680年)1月17日は、紀州藩の第四代・徳川頼職(よりもと)が誕生した日です。
「ってことは、徳川吉宗のご先祖様?」と思った方もいらっしゃるかと思うのですが、違います。この時期、紀州藩では相次ぐ藩主の死により、代替わりのスパンがとても短かったのです。
本稿では、吉宗が将軍に就くまでの不思議な経緯を見ていきましょう。
紀州藩三代目・綱教から雲行きが怪しくなっていく
紀州藩の初代は、以前ここでも取り上げさせていただいた家康の十男・徳川頼宣です。
家康~四代家綱あたりの時代で、まだ全体的に世の中も戦国気質が残っていました。頼宣本人もなかなかに物騒というか腹黒いというか大胆というか、まあそんな感じの人です。
でも愛妻家だったりユーモアがあったりして憎めないんですよねえ。
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二代目は頼宣の長男・光貞です。
何だか刀の銘にありそうですね。「光」も「貞」も刀匠の名前でよくありますし。
こちらは頼宣と比べるとより文治型の人で、法律の整備を進め、いつの時代も舵取りの難しい”二代目”を見事こなしました。
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ここまでは順調だったのですが、次の三代目・綱教(つなのり)から雲行きが怪しくなってきます。
彼もまた光貞の長男ということでスムーズに家督を継いだのですが、39歳で突然亡くなってしまったのです。
藩主になってからわずか7年、財政再建に取り組んでいたもののその結果を見ることなくこの世を去ってしまいました。
特に持病があったという記録もないので、何だかイヤな感じがしますね。
吉宗が藩主になってからも将軍が立て続けに……
綱教には子供がいなかったので、弟の頼職が養子になって四代藩主の座に就きます。
「弟が義理の子供」というと妙な感じがしますが、当時はお家断絶を防ぐためによくやることでした。
が、頼職もまた26歳という若さで亡くなってしまいます。
しかも藩主を継いでからたった三ヵ月後のことでした。
同じ宝永二年(1705年)の7月に綱教が亡くなり、9月に光貞が亡くなっていたため、紀州藩は新旧三人の主の葬儀を立て続けに出すという戦国時代でもまずなさそうな事態に陥りました。
元々傾いていた藩財政は「だめだこりゃ」状態です。
こんな超速の代替わりでしたので、まだ将軍は代替わりせず綱吉のままです。
意外と綱吉の時代って長いんですよ。
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そして綱教・頼職の弟である吉宗がいよいよ五代目として大ナタを振るうことになるのですが、さすがにここまで来ると「きな臭いってレベルじゃねーぞ!」って言いたくなりますよね。

相次ぐ関係者の死とは、どういうことなのか……/Wikipediaより引用
しかも吉宗が藩主になって四年後に綱吉が亡くなり、六代将軍・徳川家宣も就任から三年で死去。
さらに七代家継は生来病弱だったため、たった6歳で亡くなってしまいました。
家継に関しては生前から後継者問題が持ち上がっていたので、ある程度次代を誰にするかという話が持ち上がっていたのですが、血の近い順ということで吉宗も候補に入っていました。
もしも吉宗が将軍になっていなかったら?
当初は「御三家筆頭は尾張家なんだから、当主の吉通(よしみち)様がふさわしいだろJK!!」(超訳)ということになっておりました。
家宣の意向も同じです。
ところが!
吉通がこれまた何の前触れもなく突然23歳で夭折。
この時点で将軍候補は吉宗以外にいなくなってしまったのです。おいおいおい…。
これで立て続けに亡くなった徳川家の重要人物たちは全部で7名(光貞、綱教、頼職、綱吉、家宣、家継、吉通)。
本人の意思かどうかはわかりませんが、もし吉宗を将軍にしたい勢力があり、次々と障害になる人物を(ピー)していたら……と考えると背筋が凍りません。
よしながふみ先生の「大奥」では、あの人が黒幕ということになっていましたが、はてさてどうだったやら。
ここでもし吉宗が将軍にならなかったら、江戸幕府そのものが大きな影響を受けていたことは間違いないですから、その後の日本もどうなっていたかわかりません。
ほとんどの大名家はすっかり平和な時代に慣れていたので、戦乱の時代に逆戻りというよりは、各藩が好き勝手に自領を統治して分裂状態になってたんじゃないかなーと思いますが。
ちょっと穏やかな神聖ローマ帝国みたいな感じでしょうか。
起こらなかったことの予測は不可能ですし、吉宗サイコー!!と言うつもりもないですけれど、密かに「歴史が動いた」出来事だったんでしょうねえ。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
徳川吉宗/wikipedia
徳川頼職/Wikipedia