伊達綱宗

伊達綱宗/wikipediaより引用

江戸時代

政宗の孫・伊達綱宗と伊達騒動|遊び呆けて東北の雄藩も危うく潰されそうに

2025/03/26

大名の改易が多かった江戸時代。

長らく家を保つことのできた藩でも、決して順風満帆とは限りませんでした。

真田信之(真田幸村の兄)の松代藩で起きたお家騒動なんかもその代表例で、当時90歳を超えた信之が必死になって後始末をした……なんて話がありますが、他にもまだ名のある藩で数多のトラブルが勃発しております。

寛文十一年(1671年)3月27日に終結した、伊達騒動もその一つでしょう。

その名の通り伊達政宗が作った仙台藩での事件です。

樅ノ木もみのきは残った』(→amazon)という小説にもなり、さらに大河ドラマで取り扱われたこともあるので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

決して華やかな話ではない上、登場人物が多いのでわかりづらい一件ですから、できるだけ人名を省きながら振り返ってみましょう。

 


幕府の注意など屁のカッパで遊び続ける

事の発端は、伊達政宗とその息子・伊達忠宗が下の世代への教育を失敗したことにあります。

まず、政宗にとっては孫にあたる三代目の仙台藩主・伊達綱宗が、遊び放題で仕事をしませんでした。

3代藩主伊達綱宗/wikipediaより引用

この時点でもう改易フラグが立ってますね。

これに対し、政宗の十男・伊達宗勝を中心とした家臣たちがキレます。

「あんなアホなやつ藩主じゃない! 隠居するよう幕府に命じてもらおう!」(意訳)

そして彼らは実際に幕府へ願い出るのです。

いきなり隠居させるわけにもいかないので、幕府はまず「ちゃんと仕事しなよ。家臣たちが心配してるってよ」(意訳)と綱宗へやんわり注意。

しかし綱宗は、そんなの屁の河童と言わんばかりに遊び続けます。

ダメだこのバカ殿、早くなんとかしないと………と、家臣たちもいよいよ追い詰められたのでしょう。

伊達家と親族にあたる他の大名達にも連署してもらって「綱宗をクビにしてください。後は嫡男の綱村が継ぎます」(意訳)という嘆願書を幕府に出しました。

幕府も「一度言ったのに聞かないならしょうがない」とこれを受け取り、正式な命令を出して綱宗を強制的に隠居させます。

一説には「綱宗と、ときの天皇(後西天皇)の母同士が姉妹だったため、仙台藩と朝廷が結びつくのを懸念した」から幕府に睨まれたのだともいわれていますね。

それなら、それぞれの母親が輿入れするときに妨害すれば良かった話で……。

 


しゃしゃり出る宗勝「俺はあの政宗の息子だぞ!」

ともかく、こうして当時1歳(!)だった伊達綱村が四代藩主に就任しました。

当然、実務はできませんので、伊達宗勝をはじめとした親戚たちが幅を利かせるようになります。

伊達綱村/wikipediaより引用

宗勝はプライドの高い人で、常に「俺はあの伊達政宗の息子なんだぞ!」という意識がありました。

そのためどんどん態度がデカくなり、周囲からは反発を招きます。

「一人でやたら威張るとロクなことがない」というのは昔からお約束の展開ですよね。なのになぜ繰り返されてしまうのか。

そんなこんなで幼い綱村そっちのけで、家臣たちの結束は揺らぎます。

大雑把に分けて「宗勝派」か「反宗勝派」に分かれたのです。

後者はそういう意図でまとまったわけではなく、宗勝から見て「アイツ俺のことヤな奴だと思ってそう」(超訳)と見なされた人たちだったので、一枚岩ではありません。

そのせいで話がややこしいんですね。

 

「樅ノ木は残った」の主人公が刃傷沙汰を起こす

面倒な状況の中、さらに伊達家の親族内で領地争いが起きます。このタイミングでやめれ~!

トラブルは仙台藩だけでは処理しきれず、間に何人かの幕閣に入ってもらい、公平に裁定することになりました。

ついでに宗勝たちの横暴ぶりも幕閣の耳に入ります。

それが影響したのかどうか不明ですが、二回目の取調べの最中、宗勝派の原田宗輔という人物がいきなり刃傷沙汰に及びました。

寛文11年(1671年)3月27日のこと。

原田宗輔が小説『樅ノ木は残った』(→amazon)の主人公です。

もみ合う最中に宗輔も襲った相手も亡くなってしまい、ここまでくればもう領地争いどころの話ではありません。

「幕閣を巻き込んでおいてこの有様は何だ! 綱村は幼いからまだしも、後見人どもは何をしている!」

ということで、宗勝その他肩で風を切っていた人たちは軒並み処罰されます。

原田宗輔が亡くなった酒井家上屋敷/Wikipedia

原田宗輔が亡くなった酒井家上屋敷(平将門の首塚でもお馴染みの場所です)/wikipediaより引用

とりわけ宗勝は一族かつ年長者であり、さらに支藩として一関藩をもらっていたことから特に咎められ、一関藩は改易されました。あーあー。

しかも話はこれだけで終わりません。

十代前半に成長し、多感な時期だった藩主の伊達綱村が、この一連の流れで「私がしっかりしなければ!」と責任感を強め、よろしくない方向へ突き進んでいってしまったのです。

 


十分すぎる責任感が間違った方向へ進んでしまい…

仕事はしっかりやっていましたし、そのために自分の権力を強めて家中を統一しようした伊達綱村。

そこまでは良かったのですが、実際は、自分のお気に入りばかり重職に据えて、一門の人間や古くからの家臣の“上”に置いたのがいけませんでした。

当然そういった人たちは「ポッと出のくせに偉そうにしやがって! 綱村様、あんな奴らを厚遇するのはやめてください!」とお願いします。

しかし綱村は聞く気配を見せません。

前述の経緯で「もはや親戚とか代々の家臣だからといって信用はできない」と思ったのでしょうか。

業を煮やした家臣たちは「そうだ、幕府から綱村様に隠居するよう命じてもらおう!」という強引かつワンパターンな方法で問題を解決しようとします。

何度も巻き込まれる幕閣の皆さんが可哀相になってきました。

幕府のほうでは一度これを差し止めたのですが、その後も同じようなもめごとが何回も続きました。

そして、ついにときの将軍・徳川綱吉に一連の騒動がバレてしまいます。

徳川綱吉/Wikipediaより引用

 

実質90万の大藩を改易なんて骨が折れるどころじゃない

綱吉は儒学が好きで、長幼や主従を重んじる人です。

もしも耳に入れば「家臣の統制もできない藩主はいらん! 改易!」となるのは目に見えている。

仮に、本当に改易になったとしたら、この時点で実質90万石ともいわれていた大藩の後始末なんて、骨が折れるどころの話ではありません。

幕閣たちは綱村へ「あんたのやる気は良いことだけど、このままだとお家丸ごと潰されちゃうよ(´・ω・`)」と説得し、隠居を勧めました。

綱村もこれを聞いて納得し、幕府へ自ら隠居を願い出て、伊達騒動はやっと終着することになります。

こうして約35年もの間、あっちこっち(主に幕閣)に迷惑をかけまくったにも関わらず、仙台藩は何とか存続することができました。

長期的に見るとめでたしめでたし……とはいえない点もあります。

 

「へそくりを全部差し出せ!」

綱村の次に仙台藩主になったのは、従弟の伊達吉村でした。

彼は長い間のドタバタですっかり荒れていた藩の財政(主に借金)を何とかしようと、あれこれ策を講じます。

伊達吉村/wikipediaより引用

しかし、借金を返すためのやりくりでさらに金が要るわ、そんなタイミングで幕府から「東照宮の普請するんでお金よろしく☆」(超訳)という命令が届くわ。

完済どころか余計に借金が増えるという「どうしてこうなった」状態に陥ってしまいます。

いい加減何とかしないと、このままではまた「改易!!」になってしまうかもしれません。

そこで吉村は「領内の検地をやり直して、正しい石高がわかればもうちょっと収入が増えるんじゃないか」と考えました。

しかし、これがまたよろしくない。

仙台藩では家臣たちがそれぞれの領地を自ら耕しているところも多々あり、その分を副収入にして家計をやりくりしていたので、猛反発を受けます。

当たり前ですね。せっかく蓄えた「へそくりを全部差し出せ!」と言われているようなものです。

 

良くも悪くも仙台藩に政宗アリ

吉村は「私が悪かったよ(´・ω・`)」と非を認めて検地は止めました。

しかし、藩の収入がうやむやになったことで、仙台藩はその後、長らく経済が低迷したままになってしまいます。

一度は持ち直したこともあったのですが、度重なる大飢饉でマイナスが大幅に上回り、そのまま幕末へ突入するという不幸のズンドコまっしぐらだったのです。

その状態で奥羽越列藩同盟の重役をやらされても、お金がない=武器を満足に揃えることもできないわけですから、「大藩(笑)」みたいな扱いになるのは仕方のない話でしょう。

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元をたどれば、伊達政宗による息子・伊達宗勝の教育失敗が原因ということになってしまいますかね?

良くも悪くも影響力の強い御方です。


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【参考】
国史大辞典
『御家断絶―改易大名の末路 (別冊歴史読本15)』(→amazon
伊達騒動/Wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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