頼山陽

頼山陽/wikipediaより引用

江戸時代

脱藩上等自由人だった頼山陽『日本外史』著者の意外な生涯を振り返る

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頼山陽と『日本外史』
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石頭にも届いた辛口日本史

晴れて自由の身となった山陽はいろいろな文化人と交流を結びます。

儒学者、画家、僧侶、陶芸家、蘭学(ヨーロッパの学問)を身に着けた医者などなど、互いに意見やアイディアを交換して作品づくいに勤しんだようです。

初めて本を出したのは、山陽35歳のとき。

お父さんの書き残した原稿をまとめて出版したのが最初です。

その後、45歳で自分の著作『日本外史』(→amazon)を完成させました。

中国の歴史家・司馬遷の「史記」のスタイルを真似た漢文で、少しコンパクトな構成になっています。

ソース元が軍記物語の部分もあるので、名前に反して全てが史実というわけではないものの、文章が易しく緩急のあるものだったので広い読者層を得ることができました。

あの【寛政の改革】を行った石頭の松平定信にも献上されています。

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ということは、定信からOKをもらったって事にもなり、一気に注目されます。

なにしろ、中身は結構辛口なのに、お上が認めたのですから。

松平定信と山陽とは以前から交流があったそうなので、まさか貰った本を全く読まずに放置したということもないでしょうけど。

※ちなみに、そんな逸話もあってか、山陽の死後に出版されると、江戸っ子たちの大ベストセラーとなります

 

亡くなったとき机の上には完成原稿

若い頃の座敷牢生活が悪かったのか。

京都に出てからの諸国漫遊で身体にがたがきたのか。

単に根を詰めすぎていたのか。

山陽は50歳を超した頃から体調不良に見舞われることが多くなりました。

そして天保三年9月23日に亡くなるわけですが、亡くなったときには眼鏡をかけ、筆を置いた姿だったといわれています。

机の上には、書き上げたばかりの原稿が……。

仕事バカもここまでくるか!

という感もありますが、山陽は「間に合ったあああああ!」と満足していたかもしれません。

心残りがないという点で見れば、なかなか良い死に様だったのではないでしょうか。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
頼山陽/頼成一/頼惟勤『日本外史 上 (岩波文庫 黄 231-1)』(→amazon
頼山陽/長尾剛『『日本外史』―幕末のベストセラーを「超」現代語訳で読む』(→amazon

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