名張騒動

名張藤堂家邸跡

江戸時代

織田と豊臣の重臣末裔が起こした「名張騒動」悲劇の名張藤堂家邸跡へ

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藤堂家に男児が誕生してしまい……

関ヶ原の翌年、慶長6年(1601年)に藤堂家に念願の男児・高次が誕生したのです。

これまでの世継ぎとしての立場は一変し、高吉をめぐる境遇は厳しくなっていきます。

まず、慶長9年(1604年)、加藤嘉明と些細な騒動を起こしたことをとがめられ蟄居処分に。参勤交代にも同伴させてもらえませんでした。

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慶長11年(1606年)に許されて江戸城普請を務めた功績により、伊予・今治城主に任じられますが、慶長13年(1608年)に高虎が今治から伊勢・伊賀へ移った後も、今治にとどめ置かれ、高虎とは離れて27年間にわたり2万石を治めることになります。

そして寛永7年(1630年)、高虎が亡くなると、2代・藤堂高次の家臣という立場になるのです。

高吉は高虎の葬儀にも参列させてもらえず、松平定房の今治転封にともない伊勢・2万石へ移されると、そのうち5000石を次男以下3名に分知するように強いられたばかりか、名張の屋敷へ移るように命じられました。

今治城から、この名張ハウスへ

名張の地行はたった5千石。

メインの1万石は伊勢(松阪・伊勢奥津?)にあったにもかかわらずです。

しかも、一説によると、高虎が高吉に5万石を与えるようにと遺言した(さすがに可哀想になったのかな?)にもかかわらず、高次はそれを実行せず、次男の藤堂高通に与えてしまったとか(これが久居藩)。

 

冷遇を受け流し92年の生涯を終える

高次と高吉の年齢差は20歳。

かたや高虎の実子であるだけの高次に対し、高吉は実父に丹羽長秀、養父に豊臣秀次藤堂高虎をもち、豊臣秀吉徳川家康から直接禄を受けた経験があります。

また戦歴に目を向ければ、朝鮮渡海・関が原での活躍に加え、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊を相手に獅子奮迅の活躍をして、高虎を死地から救い出すという実績付きです(秀次が手放したがらなかったのもわかる!)。

高虎でさえ生前から家を乗っ取られないか心配し、疎んじていたようですから、高次にとって脅威だったのはしょうがないかもしれません――それにしても、やりすぎなような気はしますが。

ともかく、高吉はこれだけの冷遇を受けつつも、ついに反目のそぶりすら見せず、寛文10年(1670年)、静かに名張の地で生涯を終えました。

享年92。
古くから水害に悩まされてきた名張(名張の古社「宇流冨志禰神社」は河川の神を鎮めるために建てられたといわれています)で治水に取り組み、領民からも愛されていたそうです。

ちなみに高次は、高吉が亡くなる前年に隠居。

高吉に後れること6年、延宝4年(1676年)に亡くなっています。

もし高吉が大名と遇され、一国一城の主になれたとすれば、この名張屋敷は領国を治める“お城”になったはず。

そんなわけで、規模的には“お城”にもなりえたのですが、結局は“お城”になり損ねた“お屋敷”なのです。

 

名張騒動

さて、なかなかの力量をもちながらも、運命に翻弄され、しかもそれに逆らわずに長生きした高吉ですが、反抗心がまったくなかったと言えばどうか。

たとえば、名張藤堂家の家系図を見てみてください。

子孫は高虎の「高」ではなく、丹羽長秀の「長」を継承していますよね。

実際、「藤堂」の名前をもっていても藤堂にはまったく血の繋がりなどないわけで。むしろ、織田家重臣・丹羽長秀の流れをくむことに誇りを感じていたのかもしれません。

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また、事情をよく知る丹羽家の側にも、高吉の家を独立させてやれればという同情心があったものと思われます。

――いつか独立したい。

その思いは享保19年(1734年)、ついに名張騒動という形で噴出します。

高吉の実家・丹羽家や幕閣に働きかけ、独立した大名になろうと画策したことが伊勢本藩へ露見したのです。

もちろん本藩は鬼オコ。

幕府に知られては伊勢藩のほうもヤバいので、密かに、かつ迅速に兵を起こします。

安濃津藩32万石 vs 名張藤堂家1.5万石の戦いです。

屋敷が兵に囲まれてしまっては、名張藤堂家も屈服するしかありませんでした。

結局、家臣の横田太右衛門、小澤宇右衛門、七条喜兵衛による私的な画策ということで内々に処理され、3人は文字通り詰め腹をカット。

当主の長煕は隠居して嫡男の長美に家督を譲ることになりました。

しかもこの件以降、名張藤堂家には本藩から厳しい監視がつくように……。まぁ、潰されないだけマシだったのかもしれません。

この騒動はなかなか上手に処理されたようで、後年、藩士の日記が見つかるまではあまり知られていなかったのだそう。さすが忍者の藩やな(関係あるのか?)。

ちなみに、『不熟につき』という NHK ドラマで描かれているそうなので、ぜひ一度見てみたいものです。

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