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【諏訪忠厚と二の丸騒動】
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しかし、ここで頼保派についた助左衛門が、またしても貞亮についてあることないことを忠厚へ吹き込みました。
あろうことか忠厚は再び讒言を鵜呑みにしてしまい、今度は貞亮を罷免・押込(おしこめ)にします。
「押込」は昼夜の出入りを禁じる上に、外部との通信(手紙のやり取りなど)を禁じるという刑です。
閉門よりも重く感じますが、実際にはもっと軽い扱いだったこともあるので、刑罰名だけでは判断が難しいところです。
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貞亮、斬罪覚悟で幕府のお偉いさんに相談
いずれにせよ、これだけコロコロ家老が変わっていては、他の家臣たちも領民もさぞ迷惑したことでしょう。
頼保派は軍次郎を呪うわ、刺客を放つわのやりたい放題。
さらに、忠厚の正室が軍次郎を支持していたため、忠厚に正室を離縁するよう進言します。
ちょうど忠厚も子供を産まない正室にイライラしていたので、これもあっさり言われた通りにしてしまいます。
正室にとっては、ダメダメな夫と別れられてよかったかもしれませんが、こんなにも人の言いなりになるような旦那なんて、たぶん現代の女性でもイヤですよね。
貞亮はこの事態を憂いて、斬罪覚悟の上で江戸へ向かいます。
忠厚の妹婿であり、「奏者番」というお偉いさん役をしていた松平乗寛へ訴えたのです。
奏者番自体も大名と幕府との間で礼儀作法を教えたり、日頃から何かと連絡を受け持つことが多かったので、頼りやすかったのでしょう。
乗寛は「これを幕閣に知らせれば、諏訪家は改易になってしまう」と考え、義兄である忠厚を説得。忠厚の隠居と長男・軍次郎の元服及び家督継承を取り付けました。
そして、事の発端である頼保派には切腹や斬首という重い処分を下し、ようやく騒動は集結します。
貞亮は無事に元の家老職へと戻りました。
結果、江戸時代を乗り切り、明治時代には子爵も授かる
その後、新しく藩主となった軍次郎改め諏訪忠粛は、バカ親父と(元)バ家老の尻拭いのため奔走しました。
内政対策の他、藩校を作ったり、藩医に長崎留学を命じたり、藩を良くするべく働いています。
忠粛の子・忠恕も、父の薫陶を受けて内政や養蚕業奨励などを行い、成功を収めました。
しかし、藩内の凶作や江戸藩邸の焼失等により成功がチャラになってしまい、またしても財政が悪化。
諏訪藩で数少ない百姓一揆が起きてしまったために、あまり評価は高くありません。
本人は悪くないので、ちょっとかわいそうですよね(´・ω・`)
忠恕の子・忠誠は、諏訪藩最後の藩主となりました。
彼の外祖父は、あの松平定信です。
若い頃の忠誠を見て、定信は「将来有望な若者」といった印象を抱いたとか。
幕末にはいろいろありましたが、無事諏訪家を存続させ、明治時代には子爵を授かっています。
その後の子孫がマシなだけに、なんで忠厚だけがこんなにもアホなのか理解に苦しみますね。
一行でまとめるとすれば「分不相応な人が野心を抱いたり、極端に高い地位についたりすると、ロクなことがない……」という歴史あるあるなお話ですね。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
中江克己『江戸三〇〇年 あの大名たちの顚末』(→amazon)
諏訪忠厚/Wikipedia
諏訪藩/Wikipedia