天保六年(1835年)12月9日は、仙石騒動の中心人物・仙石左京が処刑された日です。
江戸時代で「騒動」といえば大名家の内々の争いですよね。
この件もその一つであり、三大お家騒動の一つとされるほどですが、スパンの長さと徐々に拡大していく関係者の数によって、話がややこしくなっています。
ざっくりいうとこんな感じ。
①財政をめぐって藩主の親戚同士の対立が起きた
↓
②当事者の一方がお家乗っ取りを企てた?
↓
③幕府の権力争いに利用されて終結
「たった三つじゃん」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんが、中身を見ていくと「ワケワカメ」と言いたくなる……と思います。
では、本題へ移りましょう。
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重商主義と質素倹約が対立
舞台は出石藩(いずしはん・現兵庫県)。
騒動の主役は、藩祖・仙石秀久の長男である久忠の子孫たちです。
仙石秀久はヤンマガ作品『センゴク』で戦国ファンにはお馴染みの武将ですね。
※以下は仙石秀久の生涯まとめ記事となります
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久忠の孫で兄の家系が「式部家」、弟の家系が「主計家(ちからけ)」といいました。
仙石騒動の主役は、式部家の仙石左京と主計家の仙石造酒(みき)。
やたらと読みにくいですが、官名由来の読み方なのでご勘弁ください。
この二つの家は、代々「藩主の親戚」として重役に就いていました。
左京と造酒もやはり重役で、この時期6万両もあった仙石家の借金返済のため、力を尽くすことになります。
そこで協力すればいいものを、対立したためにお家騒動にまで発展(悪化)するわけです。
財政担当が目まぐるしく入れ替わり
まず財政担当になったのは仙石造酒でした。
造酒は質素倹約を中心として財政改善を目指しましたが、例によって効果が上がりません。
そこで次に左京が財政担当になります。
左京は藩士からの上米制や、大坂商人からの借金を元手に、商業に力を入れて税収を上げ、藩政を潤そうと考えました。
しかし、あまりにも強引な改革だったため、藩の内外から猛烈に反発を受けます。
お偉いさんは先々のことを考えなければなりませんが、一般庶民からすれば、その日食べるための米や金のほうが大事ですからね。
さらに、左京が財政担当になった翌年に【出石大火】が発生して多くの商家が焼けてしまい、方針を変えざるを得なくなります。
「方針を変えるなら、担当者も変えたほうがいい」ということで、再び造酒が財政改善に乗り出しました。
この時点でワケワカメですね。
有名な“対立劇”に例えて言うなら、田沼意次と松平定信が挙げられるでしょうか。
「意次と似て、商業重視の人が左京」
「定信と同じように、倹約を徹底させようとしたのが造酒」
そんな風に考えれば、少しわかりやすくなるかもしれません。
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財政難に加えて後継者問題も
こうして元々仲が良くない式部家・主計家が、財政担当の座を巡って溝を深め、さらには藩主の後継者騒動がからんで余計にややこしくなります。
急逝した藩主・仙石政美(まさよし・まさみつ)に男子がいなかったため、スグに次の藩主を決められなかったのです。
政美の父で前藩主の久道が存命だったため、久道主催の後継者会議が江戸の出石藩邸で開かれることになりました。
国元の家老である左京と造酒も、江戸でこの会議に参加します。
しかし、このとき左京がまだ未成年の息子・小太郎を連れて行ったことで、造酒たちは「もしかして小太郎を藩主に推す気なのでは?」と疑いました。
世継ぎを決める際は、その場に本人が居合わせていなければならないという決まりがあったからです。
このタイミングでわざわざ連れてくるからにはそうと思われても仕方がありません。
結局、政美の末弟・久利(当時4歳)が藩主に決まり、久道が後見を務めることになるのですけれども……えーと、最初からそれでよかったんじゃないですかね。
この時代、当主の座は基本的に「前当主と最も血が近い人」がなるものです。
だから親→実子が最優先で、実子がなければ親の弟という順番になるわけです。
つまり、左京が小太郎を連れてきても、藩主になれる可能性はかなり低かったわけです。ご隠居様の久道も存命ですし。
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