自らの足で泥臭く戦場を駆け回り、失敗しても絶対に挫けない――。
仙石秀久と言えば、いまや不屈の武将として戦国ファンにとってはお馴染みの存在でしょう。
彼を人気者に押し上げたのは、言わずもがな漫画『センゴク』。
2004年にヤンマガで連載が始まると、鉄砲よけのための【竹束】を使ったり、急勾配な山城の【竪堀】を走ったり、敵の待つ城の【虎口】へ決死の覚悟で突入したり。
かつての戦国漫画にはなかった細かな表現力が話題となり、一躍、戦国ファンの間で話題となりました。
そんな仙石秀久は、史実で一体どんな人物だったのか?
本稿では、慶長19年(1614年)5月6日に亡くなった、秀久の生涯を追ってみたいと思います。
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仙石秀久 土岐氏に仕えた土豪の家に生まれ
仙石秀久は天文20年(1551年)、美濃国本巣郡中村で生まれました。現在の岐阜県本巣市付近です。
秀久の家はこの地で代々土岐氏に仕えた土豪で、父は仙石久盛。
久盛と幼少期の秀久は、土岐氏とその後釜として力を握った美濃斎藤氏に仕えていたとされます。
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ただし、仙石氏に関する記述は『改選仙石家譜』という信ぴょう性に疑問符の付く史料に頼らざるを得ず、以下に記す秀久の記録もそれに準じたものが多くなりますので、あらかじめご了承ください。
さて秀久といえば、やはり漫画『センゴク』が圧倒的に有名でしょう。
オツムはいささか弱いながらハートは熱く、豊臣秀吉の家臣として出世街道を駆け上がっていく。
序盤で殴り合った可児才蔵や堀秀政とは、小田原征伐でも再び協力し合ったりして、読む者の心も目頭も熱くする――。
と、非常に魅力的な内容ですが、漫画から切り離しまして、史実における秀久の幼少期から確認しておきましょう。
織田との戦で兄を失い家を継ぐ
前述の通り織田家に攻め落とされる前の仙石家は美濃斎藤氏に仕えており、『麒麟がくる』明智光秀のような暮らしをしていた可能性が考えられます。
ただし、秀久本人は幼い時期に養子へ出されていたとされ、越前の豪族・萩原国満という人物のもとで幼少期を過ごしたようです。
彼には多くの兄がおり、本来でしたら家を継ぐ立場にありませんでした。
それがなぜ仙石家を継いだのか?
というと、当時の斎藤氏は織田氏との戦いで疲弊し、戦乱の最中、秀久の兄たちが次々と落命したのです。
秀久は急遽、本家に呼び戻され、家を継ぐ資格を得ました。
そして滅亡寸前だった主君の斎藤龍興を見限り(稲葉山城の落城時期については諸説あり)、永禄7年(1564年)には織田信長に従ったのです。
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