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祝宴のはずが一転惨劇に
松姫の婚礼は、万治元年(1658年)、7月26日と決まりました。
お万は、江戸の会津藩邸で祝宴を開くことにしました。
上杉家に嫁いでいた媛姫も里返りをして、異母妹を祝うこの席に出席。
姉妹のもとに御膳が運ばれてきます。
松姫の前に御膳が置かれようとした時、胸騒ぎを覚えた松姫付きの老女が止めました。
「松姫様、姉上より先に箸をつけるとはもってのほかです」
「そなたの言う通りじゃ。姉上、先にお召し上がりくだされ」
松姫の前に置かれるはずであった御膳は、媛姫の席に置かれました。このときお万の顔はひきつったかもしれません。
しかし彼女は何も言えず、媛姫が膳に箸を付けるのを見守るしかありませんでした。
その晩、米沢藩邸に戻った媛姫の身に異変が起こりました。
激しい腹痛におそわれ、二日後には急死してしまったのです。
媛姫はまだ18才。彼女の身に一体何が起こったのでしょうか。
実の娘を毒殺してしまったお万
ことの真相を探るうちに、おそろしい事実が判明しました。
側室の娘が格上の大名家に嫁ぐことに怒ったお万は、祝宴の膳にひそかに毒を盛ったのです。
しかし松姫付きの老女の機転によって、毒入りの膳は先に媛姫へ。
そしてそれを知らぬうちに、媛姫は口をつけてしまったのですね。
お万の奸計は、なんと実の娘を殺してしまったのでした。
正之の受けた衝撃、そして怒りと喪失感は大きいものでした。
正之はこの毒殺事件に関わったものを厳しく処罰したものの、首謀者のお万だけはそうできませんせした。
二代目藩主の生母を罰したとなれば、影響がのちのちまで及ぶからでしょう。
その御家訓にはシッカリと
「婦人女子の言、一切聞くべからず」
という一条が加えられたのです。
政治の場から女性を遠ざけ、子孫が女がらみで悲劇にあわないようにという、彼なりの思いがこめられた一条でした。
保科正之は米沢藩が断絶しかけた際に奔走し、存続に力を尽くしました。
正之からしてみれば、上杉家に申し訳なかったという気持ちがあったのかもしれません。
★
この毒殺事件の顛末は後世の創作ではないかと思われる部分もある、と言われております。
しかし、広く信じられた話ではあります。
完全無欠ともいえる、保科正之の人生における唯一の汚点。まるでドラマのような展開でもあります。
いくら本人が公明正大にふるまったところで、こうした悲劇が起こりえるのかと思うと、虚しくなる話でもありますし、過ぎた嫉妬心の危険を感じる逸話でもあります。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
野口信一『会津藩 (シリーズ藩物語)』(→amazon)