松尾芭蕉(葛飾北斎画)/wikipediaより引用

江戸時代

俳人の前は帳簿の仕事も?松尾芭蕉の知られざる生涯51年まとめ

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無職はマズイから帳簿付けのオシゴトでも

芭蕉は様々な句集を発行。

興行に参加したりして、名を上げていきます。

しかし、当時の俳壇では「俳句をどう詠むべきか」ということて派閥論争が激しくなっており、芭蕉を含めて辟易している人もいました。

また、生活苦からか、延宝五年(1677年)には、水戸藩邸「分水工事」の帳簿付けの仕事をやっていたこともあります。

芭蕉のような、いかにも文化人なタイプがこの手の仕事をするのはちょっと意外でしょうか?

これは「無職だと目をつけられる」という当時の社会制度にカギがありますので、軽く触れておきましょう。

現在の戸籍に近い制度として、江戸時代には

【宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)】

というものがありました。

元々はキリシタンを取り締まるため、

「誰がどこの宗派を信仰しているのか、どの寺に所属しているのか」

をまとめた台帳です。

時代が下るにつれ、ほとんどの地域でキリシタンがいなくなると、次第に戸籍や人口調査の役割が強くなりました。

ここで関わってくるのが、当時の司法にあった「連座」です。

誰かが罪を犯した時、罪の重さによってはその家族にも罰が与えられる……というもの。

古い時代の中国では「三族(九族)皆殺し」などの「族誅」などが連座の最たる刑とされていました。

この場合の「族」は現在の「親等」に似た意味でして。

王朝や時代によって対象が変わってくるので、一概に「三族はどこからどこまで」というのは難しいところです。

なんとも恐ろしい話であり、何かコトが起きたら、周囲としてはたまったもんじゃありません。

そこで救済措置。

江戸時代の場合は、本人を勘当してしまえば連座から逃れることができました。

あるいは、連座にならぬよう、はじめに離婚や勘当をしてから事に及ぶ……というケースもあります。

元禄赤穂事件では大石内蔵助良雄が。

大塩平八郎の乱では大塩平八郎が。

それぞれ妻を離縁してから決起していました。

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離縁の場合は実家に帰ることになるので、司法的な問題はないといってもいいのですが、勘当の場合は話が別です。

勘当されると宗門人別改帳から名前を外され、

「無宿(むしゅく)」

「帳外(ちょうはずれ)」

と呼ばれる状態になります。現代でいえば「無戸籍者」が近いですかね。

江戸幕府は、こうした無宿や帳外は犯罪率が高く、非常に警戒していました。

芭蕉も、無職のまま、そう思われたくなかったんですね。

 

旅の中で生きることを考え始める

話を戻しましょう。

芭蕉は上記の通り、伊賀上野の地に生まれ、江戸にやってきた新参者です。

俳諧の世界では名を知られてきているとはいえ、当局からすると

「腹に一物持っていてもおかしくないヤツ」

「俳諧師とか言ってるが、食いっぱぐれればドロボーでもなんでもやるつもりでは?」

ということになります。

芭蕉はそういった疑いを避けるために、公の仕事を一度でもして、疑われないようにしたのでしょう。

しばらくして、俳句の批評なども行うようなったあたりには名も上がり、無宿の疑いはかからなくなったようです。

現代で言えば、売れないミュージシャンやお笑い芸人がようやくテレビに出て認知されたって感じでしょうか。

いつの時代も世知辛いものですね。

しかし、この辺から徐々に厭世的な気分になっていたようで、ひとつところに落ち着くより、旅の中で生きることを考え始めます。すると……。

俳句にもその特徴が顕れ始めます。

当時の旅に欠かせなかった「笠」を題材とした句を多く詠むようになったり、自ら笠を作ったりしたのです。

どうも彼は「笠」=「風雨から身を守るもの」=「庵に通じる」と考えていた様子。

そして貞享元年(1684年)8月、芭蕉は初めて長期間の旅に出ることにしました。

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